臥待月 byつう
イルカが凍死寸前で救助され、医療棟に収容されて十日。
とりあえず常食を摂れるようになったため、帰宅が許可された。もっとも、まだ療養が必要だということで、以前、足を負傷したときと同じく、カカシの家でしばらく様子を見ることになった。
「お世話になります」
病室に迎えにきたカカシに、イルカは丁寧に頭を下げた。
「嫌ですねえ。他人行儀な」
つい、口がすべった。イルカが苦笑する。医師はそ知らぬ顔で薬の処方が書かれた紙をカカシに渡し、
「時間通りに服用させるように」
とだけ言って、すたすたと病室を出ていった。
前のやつよりは、頭がいいな。
カカシは医師を見送りつつ、思った。なにしろ、あのときのやつはイルカの体を食い入るように見て……。
思い出しかけて、やめた。イルカがこちらをじっと見ていたから。
「……行きましょうか」
ぼそりと、カカシは言った。
「はい」
いくぶんおぼつかない足取りで立ち上がったイルカの背を、カカシはそっと脇から支えた。
看護といっても、以前のように傷の消毒やら包帯の交換やら入浴の介護までする必要はなかったので、カカシとしては楽なものだった。食事と洗濯と投薬。そして、リハビリも兼ねた散歩などをして日々を過ごす。
もっとも、イルカの左足はまだ抜糸をしたばかりだったので、いくぶん歩きにくそうではあったが。
カカシは雪濠でイルカを見つけたとき、気付け代わりにと、古傷を力任せに掴んで、開いてしまったのだった。
「ひどいですね」
医療棟で意識を取り戻したイルカに、前と同じ台詞を言われたが、カカシもまた同じ台詞を返した。
「死ぬよりはマシだと思って、我慢してください」
二度も肝を冷やされたのだから、これぐらいは言ってもいいだろう。
イルカの体力は、かなり落ちていた。火影からは、十分休養を取らせるようにと言われている。カカシにも長期の休暇が許されたのは、イルカが雲の国で行なった工作によって、木の葉の国が国境地帯において、かなり優位な立場にたったからだった。
「てなわけで、例によって、金一封だ」
見舞いに来たアスマが、報奨金をイルカに手渡した。
「ありがとうございます」
今回はイルカも素直に受け取る。
「命張ったわりにゃ、少ないけどよ」
紫煙を吐きつつ、アスマは笑った。
「まあ、おかげで水入らずなんだから、怪我の功名ってこったな」
あけすけにそう言われ、イルカは困ったようにカカシを見た。
余計なことを……。カカシはアスマをにらんだ。
「おお、恐い恐い。さあて、そろそろお邪魔虫は消えるかな」
いつもながら、引き際を心得た男である。
暗部時代の自分を知りながら、変わらぬ態度で接してくる数少ない知己の一人。仕事の相手としては信頼に足る人物だが、やたらとイルカにちょっかいを出してくるのが気に入らない。
自分が里を離れているあいだに飲みに誘ったり、あろうことか錦楼にまで連れていったという。
いまだから笑い話で済むが、あのころにその話を聞いていたら、血を見ていただろう。アスマとて上忍だ。真向勝負をすれば、どちらも無傷でいられるわけがない。
いや、それよりも。
カカシは胸の奥に、自分でもぞっとするほどの冷たい思念を感じた。
もしかしたら、自分はイルカを殺していたかもしれない。イルカが許しを乞うまで責めつづけて、その命を奪っていたかもしれない。
そうなっても不思議ではなかった。それほどに、自分はイルカに執着していたから。
「カカシ先生」
イルカの手が、カカシの手に重なる。
「外の空気を吸いたいんですが」
カカシは思考を中断した。
「……ああ、そうですね」
そう言えば、今日はまだ散歩に出ていなかった。アスマが昼食時にやってきて、一緒に食事をしたあと、ずいぶん長居をしていたから。
「着替えを取ってきますから、待っててください」
カカシは立ち上がった。箪笥部屋になっている控えの間に入る。
足の負傷をしたときから、ずっとイルカの衣類が入っている箪笥を開けて、冬物の外着を出す。
そうか。あれから、もう一年ちかくたつのだ。
箪笥の中でイルカの持ち物の占める割合がだんだん増えて、冬物も夏物も、合いの物まで納められている。
季節が、巡ったのだ。自分たちのあいだで。
その前の一年と、この一年と。なんという違いなのだろう。
重ねられた手のぬくもり。たったそれだけのことで、こんなにも潤う自分がいる。
カカシはイルカの衣類と自分の外套を手に、控えの間を出た。
少し時間が遅くなっただけで、外はたいそう寒かった。
「大丈夫ですか」
カカシは訊いた。なにしろ、雪山で遭難して、まだ二週間しかたっていない。食事の量も常の六割ほどで、どう贔屓目に見ても快癒にはほど遠い状態だ。
「はい。気持ちいいですよ」
イルカはゆっくりと川縁の道を歩いた。
「そろそろ、家の様子を見に行きたいと思って」
「駄目です」
カカシはぴしゃりと言った。
「まったく、ちょっと調子がよくなったら、そんなことばかり考えて」
「でも、ひと月ちかくも放ったらかしにしているので……」
「前のときも、そうだったでしょ。どうってことないですよ」
イルカは普段から、まめに家の手入れをしている。一カ月ばかり主が不在だとて、たいした影響はあるまい。
「帰りましょうか。風が出てきましたし」
カカシはイルカの腕を取った。イルカはため息まじりに小さく笑い、それに従った。
イルカを座敷に戻して、カカシは厨に入った。
一人のときはめったに自炊などしないが、いまはそういうわけにもいかない。イルカにきちんと食事を摂らせ、薬を飲ませる。それが自分の仕事だから。
消化がいいように、汁物の中にいろいろな食材を入れる。大根、白菜、ネギ、豆腐。あとは蒸し鶏に味噌を付けたもの。飯が炊き上がるのを待って、カカシは膳を座敷に運んだ。
襖を開けると、イルカは文机に向かって、なにやら書き物をしていた。
またか……。
カカシは息をついた。医療棟からここに移ってきて以来、暇さえあれば何事か、覚え書きのようなものをしたためている。
「根をつめると、体に毒ですよ」
何度目になるかわからない台詞。イルカは手を止めて、微笑した。
「意外と、心配症なんですね」
そうですよ。あなたに関しては。
「食べませんか」
そっと、塗りの膳を置く。
「いい匂いですね。いただきます」
イルカは膳の前にすわり直して、手を合わせた。カカシも同じようにしてから、箸を取る。
ようやく、この動作にも慣れてきた。イルカと出会うまでは、食事の折にいちいち手を合わしたりはしなかったのだが。
イルカはゆっくりと箸を運んでいる。負担にならぬよう、盛り付けを若干少なめにしてあるのだが、それでも全部は食べきれないようだった。
この様子だと、完全に復調するまで、まだだいぶかかりそうだ。それまでは、イルカはここにいる。
朝も、昼も、夜も。
自分の手の届くところに、ずっといる。あのときと同じように。
「どうかしましたか?」
箸を置いて、イルカが訊いた。
「はい?」
カカシは顔を上げた。黒い瞳が、不思議そうにこちらを窺っている。
「いえ、なんとなく、笑っているように見えたので」
笑って……?
カカシは考えた。そうかもしれない。自分は、そのことを望んでいるのだから。
「ちょっと、思い出していたんですよ」
「なにをですか」
「あなたが、俺を庇って怪我をしたときのこと」
「ああ、あのときも、お世話になりましたね」
懐かしそうに、イルカは言った。
「じつはね」
カカシは声を落として、続けた。
「あなたを独り占めできるなら、怪我なんか治らなくてもいいと思ってました」
本心だった。そしてそれは、いまも同じ。
イルカはまじまじとカカシを見た。
「やっぱり……ひどいですね」
三度目の台詞。しかし、言葉とは裏腹に、イルカの表情は穏やかだった。見様によっては、うれしそうにも見える。
自惚れても、いいのだろうか。
約束の指切りをした。あれを、信じていいのだろうか。
カカシは膳を脇にやって、イルカの手を取った。左手の指に、そっと口付ける。
「カカシ先生……」
「あ、すみません。食事、続けてください」
衝動を抑えられなかった。慌てて、手をはなす。
イルカはしばらく自分の手とカカシを見比べていたが、やがてカカシの横にひざを進めて、言った。
「嘘です」
「は?」
「ひどいなんて、嘘です。二度も、あんたはおれを助けてくれた。ひどいなんて、思っていません」
懸命に、言葉を繋いでいる。こちらに届くように、心を砕いて。
「思っていたら、ここにはいません」
そうだ。たとえ、体はあったとしても。
抱いても抱いても、飢えていたころを思い出す。一瞬は満たされても、またすぐに餓えてしまう。それにくらべて、いまはどうだ。この手応えは。
カカシはイルカの背に手を回して、抱きしめた。
いくぶん細くなった体。筋肉も落ちて、儚げになってはいるが、意思の強さは以前のままだ。
自惚れても、いいんですね。……自惚れましたよ。
カカシは夕飯がすっかり冷めてしまうまで、そうしていた。
結局、二人とも半分ちかく食事を残して、その日は床に就いた。
イルカの寝息が、夜のしじまに聞こえる。
夜半になって、障子がほんのりと明るくなった。今夜は、月の出が遅い。
十九夜。臥待ちの月とは、よく言ったものだ。
そろそろ、休もうか。明日もまた、早めに起きて朝飯の用意をしなくてはいけない。
カカシはイルカの夜具を直し、隣に添い臥した。
(了)