端午の節句が終わり、木の葉隠れの里でも新しい人事が発表された。
 イルカはそのまま事務局に残ったが、同期には国境近くに赴任する者もいた。
「ま、二年もすれば帰ってくるさ」
 彼らに悲壮感はないが、いまだ微妙な関係にある雲の国や岩の国の国境地帯は、必ずしも安全とは言いがたい。忍という仕事自体、常に危険を伴うものではあるにしても、里に駐在するのと外部へ赴くのとでは根本的に違う。
 送別会のあと、イルカはなんとなく物悲しい気持ちを抱えて帰路についた。








〜あかし〜     byつう






 飲みすぎたかもしれない。
 ふだんなら翌日のことも考えてセーブするのだが、今日はなぜかそういう気分にならなかった。中忍になってからずっと付き合いのあった者も何人か、新しい勤務地に赴く。二、三年のこととはいっても、仕事上、これが最後になることだってありうるのだ。
 勧められるままに、イルカは酒をあおった。楽しい思い出を、残しておきたかった。彼らに、次に会うその日まで。
「阿呆か、おまえは」
 岩の国に赴く友人は、イルカの頭をはたいた。
「全員から返杯受けやがって。これじゃ、どっちが主賓かわかりゃしねえ」
 だれか、こいつを送っていってやれよ。
 そんな声が聞こえた。さすがにそれはまずい。
「大丈夫だから」
 お開きのあと、イルカはひとりで店を出た。
 夜風が心地いい。仲間と酒を飲むのは久しぶりだった。なにしろ、この数ヶ月、自分は自分ではなかったから。
 昨夏、イルカはひとりの上忍の極秘任務に関わった。はたけカカシ。「コピー忍者」と称される、里一番の遣い手である。
 手傷を負った彼を匿ったのをきっかけに、イルカはカカシの監視下に置かれた。そして、自らの意志とは無関係に最初の関係を持ったのだ。
 様々な経緯があって、いまでは精神的にも深い関わりを持っているが、これまでの道は決して平坦ではなかった。ぎりぎりまで追いつめられて、一度はあの男を殺そうとさえ思った。それが……。
 イルカは空を見上げた。
 満天の星。美しい三日月。人の営みとは関係なく、月日はめぐっていく。
 取り引きのようにして始まったカカシとの関係。あのころの自分は、カカシに体を与えるだけの一体の人形だった。虚無感に苛まれながら、体を繋いでいた日々を思い出す。
 それらのつらく苦しい出来事は、心の中に蓄積されて揺るぎない力となっている。
 川縁の道にさしかかり、イルカは土手を見下ろした。
 秋には、大人の背丈ほどもあるすすきが群生する。その中を、かつて自分はあの男から逃げるために走った。
「イルカ先生」
 背後から、声がした。はっとして、振り向く。
 弱い月明りの下、銀髪の上忍が立っていた。なんと間のいいことだ。いま、あのときのことを回想していたというのに。
「どうしたんですか。遅いですね」
「今日は、送別会があったので」
「ああ、そうでしたね」
 他愛もない会話をしながら、歩く。
 酔いのせいか、多少足元がおぼつかない。怪我をした左足が、痺れているような感覚さえあった。
「なんか、あぶなっかしいですねえ」
 カカシが言った。
「うちで、休んでいきますか」
 わかりやすい誘いだ。まったく、油断も隙もない。
 怪我が治って職場に復帰して以来、イルカはカカシの家に行っていなかった。結局、荷物もそのまま置きっぱなしだ。
 最近は、カカシがイルカのもとを訪なうことがあたりまえになっていた。以前とはまったく逆である。
 なんとなく、足が向かなかった。あの家は、檻であったから。
 心を閉ざして、体を供する。そのためだけにあった場所だった。たとえどれほど体が満たされようと、そこに安息はなかった。
「どうします?」
 藍色の瞳が問う。イルカは足を止めた。
「おれが、決めてもいいんですか」
「いいですよ」
「もし、帰ると言ったら?」
「送っていきます」
 結局は、同じじゃないか。イルカは苦笑した。
「わかりました。お邪魔します」
 ふたたび、歩を進める。
 カカシはそのあとから、ゆっくりと歩き始めた。





 かれこれ、ひと月ぶりだろうか。いや、もう少したつ。
 里の外れにある、カカシの家。
 床柱や欄間や違い棚の細かい模様まで、イルカは覚えていた。香炉や文箱の埃もあいかわらずだ。
「飲み直しますか」
 カカシは膳に杯を乗せた。イルカは首を振った。
「やめておきます。あしたは、夜勤もあるんですよ」
 昼の事務に引き続いての夜勤。できるだけ、体調を整えておかねばならない。もっとも、先刻は少し飲みすぎてしまったが。
「それじゃ、泊まっていってくださいね」
 カカシは膳をよけた。
 額当てを外す。さらりと流れる銀髪。まっすぐに向けられる、ふた色の瞳。
 そうだ。この顔。
 夜を過ごすときのみにさらされる、素顔。
 唇が、重なった。熱い舌がゆっくりと中へ入ってくる。イルカはそれに応じようとした。背中に手を回し、自分がいる場所を確認して……。
「……っ!」
 カカシが顔を歪めた。
「あ……」
 イルカは呆然とした。
 いま、自分はなにをした?
 カカシの唇が切れている。じんわりと浮かんでくる、赤い血。
 なぜ、そんなことをしたのかわからなかった。脈拍が一気に速くなる。
 カカシは唇を手で拭った。ゆっくりと、その事実を見つめる。
「……いやなんですか」
 抑揚のない声。
 違う。そんなんじゃない。
 そう叫びたかった。が、できなかった。声が、まるで鉛のように固まっている。
「いいですよ。べつに、俺は」
 カカシの目が、以前のそれにもどっていた。獰猛な肉食獣。喰らいついたら離れない、貪欲な光。
 カカシの手がイルカののどにかかる。ガタン、と派手な音がして、膳が壁ぎわまで飛んだ。






 違うのに。
 イルカは心の中で繰り返した。
 カカシは執拗に背後を攻めている。愛撫も口付けも、なにもない。体を作ることさえできずに、荒々しく貫かれた。
 本当に、わからないのだ。自分でも。なぜあのとき、拒んでしまったのか。
 求められて、応じて、満ち足りて。
 そんな関係を始められたと思っていた。そして、自分もカカシを求めている。体だけではなく、心で。それなのに、なぜあんなことをしてしまったのか。
 苦しい。
 打ち付けられる怒りが、全身を苛む。なんだか、これではまるで、最初のときのようだ。力ずくで蹂躙された、あのときの……。



 そうか。
 やっと、わかった。
 イルカは力を抜いた。



 カカシが動きを止めた。
「……イルカ先生?」
 そっと、肩に触れる。イルカはゆっくりと、顔を上げた。
「すみません」
「え?」
「あんただけを、見ていればよかったのに……」
 この部屋を見てしまった。かつて「檻」であった、この部屋を。
 ばかなことだ。自分は、あの最初の日の恐怖をすでに乗り越えた。同じ場所にカカシを招き入れても、不安も恐怖も感じなかった。それなのに。
 なにをいまさら恐れることがある。どこにいても、自分たちは変わらないのだから。
「続けて……ください」
 夜具に顔を埋めて、イルカは言った。
 自分の中にいるカカシを、しっかり感じよう。そうすれば、信じられる。
 カカシの手が、大腿部の裏をなぞった。ぞくり、と背筋がわななく。カカシを庇ったときに受けた傷。その場所を何度も撫でられて、イルカは頭を振った。
 これが、証拠。この男の盾になれる自分がいるという証し。
 カカシの動きが、いつものリズムを取り戻した。イルカの様子を窺いながら、徐々に高まりへと導いていく。
 カカシの息が耳のうしろで聞こえた。荒々しい息が一瞬止まり、カカシはイルカに自分の熱を託した。



 本当に、なんて無器用なのだろう。二人とも。
 要するに、余計なことを考えてはいけないということだ。
 カカシの寝息を聞きながら、イルカはそう結論づけた。カカシが眠っている。その横で、自分も眠る。それで十分じゃないか。
 薄い月影が障子を通して差し込んでいる。
 その光に包まれて、イルカは夜の淵に沈んでいった。



   (了)



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