『寒月』
月は、寒さを知る。

byつう
二の章
渓谷で小休止をとったのち、イルカはふたたび木の葉の里に向かって歩き始めた。
まもなく夜明けだ。いまさらながら、往路の時間的なロスが悔やまれる。
徳樹上人のもたらした情報は、もしかしたら木の葉の国の今後に重大な影響を与えるかもしれない。自分は詳しい事情を知らされていないが、どうやら木の葉の上層部において、雲の国と岩の国に関するなんらかの作戦が進行しているらしい。
カカシがそれに関わっていることは、なんとなく想像がついた。そして、それにナルトたちを巻き込んでいることも。
危険すぎる。
イルカは思った。
いくらナルトたちに経験を積ませるためだとしても。
駆け引きも策略も必要ではあるが、それはいわゆる「大人」の範疇だ。いまのナルトたちにそれを教えてどうするのだ。それよりも、まずまっとうに相手に向かい合う姿勢こそ、彼らには必要ではないのか。
勝つことは大切だ。とくに忍として生きていく者にとっては。
だが、彼らにそのための方法のみを教えてはいけないと思う。そんなことをすれば、自分がなぜ「忍」として生きるのかさえわからなくなってしまう。
カカシは、物心ついたころから「忍になる」ことしか知らなかった。そのほかの道など、彼にはなかった。
「人間じゃねえと、思ったよ」
杯を手に、アスマがそう言ったことがある。
「でも、それはあいつのせいじゃない」
カカシを拾ったのが、暗部の人間であったこと。それが彼をねじ曲げてしまったのだ。
「おまえさん、あいつが嫌いかい」
そう訊かれ、答えられなかった。
もうあの男と体の関係ができていたころだった。力ずくでねじ伏せられて、欲望のままに抱かれて、虚無感をひしひしと感じていたころ。
自分は人外のものに魅入られてしまったのだと思っていた。それなら、まだ救われる。逃げることができなくても、たとえこのまま朽ちてしまっても、自分は人でいられる、と。
しかし、彼は人であることを奪われた者だった。
そのあとだったろうか。あの男に、ほしいと言われたのは。
記憶は曖昧だ。体と心が、別々の時間を持っているかのように。
白々と、空の色が変わっていく。
イルカは懸命に、尾根を走った。
山麓の村にあと少しというところで、イルカは自然界にあるまじき音を聞いた。
金属の交わる音。岩の粉砕する音。そして、罵声。
「ふざけんじゃねえ!」
まさか、ここでこの声を聞こうとは。
イルカは声のする方角へ急いだ。
土砂崩れでもあったのだろうか。斜面に一部だけ、山肌の露出した場所がある。
そこで、数人の忍が刃を交えていた。罵声の主はナルトだった。
「オレたちは、てめえらに関わってる暇なんかねえんだってばよっ」
あいかわらず,威勢がいい。
額宛ての模様から察するに、相手はどうやら岩の国の忍らしい。
イルカは岩陰から様子を窺った。
サクラは上の方で、木から木へ飛び移って相手の攻撃を分散させている。逆にサスケは、敵の注意を一点に引きつけてから効果的な反撃を加えていた。
雲の国に行ったはずのナルトたちがいまだにここにいて、しかも岩の国の忍と戦っている。
徳樹上人が言っていたように、木の葉の国内で岩の国の忍がなんらかの画策をしていたということか。
敵の数は、ざっと十。カカシはナルトの後方で、何人かを一手に引き受けていた。
カカシが実際に戦うのを見るのは、はじめてだ。さすがに、流れるような動きをしている。前後左右を一時に見切れる能力を持っているのだろう。攻撃を受ける一歩手前で、見事にかわしている。
しかし……。
イルカは眉をひそめた。
あれが、「コピー忍者」のカカシだろうか。
たしかに、そつのない戦い方をしている。無駄な力は使っていないし、多勢を相手にして打撃も受けていない。が、あまりにも動きが緩慢だ。
もしかしたら、どこか怪我でもしているのかもしれない。外見からはまったくわからないが……。
もう少し、近くで見たい。が、自分は徳樹上人から重要な情報を預かっている。ここでこれ以上時間を取って、取り返しがつかなくなっては困る。
イルカは逡巡した。と、そのとき。
大きな音がして、山肌がえぐれた。
「危ない!」
ナルトの体が、崖下に吹き飛ばされた。突き出した岩に激突しようかという寸前に、カカシの腕がナルトを受けとめた。
あの男でも、部下は助けるんだな。
イルカは、ほっと胸をなでおろした。これまでの行状からして、もっと情け容赦のない男かと思っていたが。
「いってーっ」
ナルトが顔をしかめる。どうやら、足を痛めたらしい。カカシがナルトの腕を引っ張る。
「ほれ、行くぞ」
「わかってるってばよっ」
ナルトがふてくされた調子でそう言った直後。二度目の爆音が響いた。二人の体が、土煙とともに横に飛ぶ。
「あ……」
イルカは目を見張った。カカシの背後の木が、不自然に揺れた。
葉陰に、クナイの鈍い光。
イルカは咄嗟に、地面を蹴っていた。
駄目だ。間に合わない。このままでは……
一瞬、頭が真っ白になった。
自分がなにをしたのか、まったく覚えていない。
気がついたときには、カカシの顔が目の前にあった。
藍色の瞳が、大きく見開かれている。泣きそうな、子供のような目。
どうしたんだろう。どうして、この男はこんな顔をしているのだろう。
はじめて見る。なんだか、妙な気分だ。
獰猛な、肉食獣のようだと思っていた。自分を求めてくるときの、この男の顔は。
閨でのみさらされる、ふた色の瞳。薄い唇に浮かぶ自信に満ちた笑み。さらりと流れる銀髪の端々。
あんなに恐ろしいと感じていたのに、なぜかいまは、それが懐かしい。
足が痺れる。視界が斜めに崩れる。
イルカは、差し伸べられた手にすがった。
息ができない。まいったな。クナイに毒でも塗ってあったらしい。速効性の神経毒。これはかなり、危ないかも……。
意識が途切れかけたとき、強烈な痛みが左足に走った。大腿部の裏側。クナイが刺さった場所だ。
「……つっ……!」
「すみません」
カカシの声。
「切っちゃいました」
「……なにを……したんです」
息苦しさに喘ぎながら、イルカは言った。
「なにって……患部を切開して毒を出したんですよ」
カカシは解毒剤を塗布しながら、説明した。
「傷口、だいぶ広がっちゃいましたけど、ここで死ぬよりはマシだと思って諦めてくださいね」
淡々と、カカシが言う。
「……ひどいですね。あんたは……ほんとに、いつも……」
そうだ。いつも、自分勝手で、わがままで。
意識が混濁してきた。ふっと、体が持ち上がる。
「あーっ、先生! アスマのおっさんが来たぜっ」
ナルトが叫んだ。
「ああ、なんとか間に合いましたねえ」
心底ほっとしたように、カカシは言った。
それが、イルカが聞いた最後の声だった。
『寒月』 終
物語は『朧月』へと続きます。
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