春襲〜はるがさね〜 byつう
西方が木の葉の手に落ちて、ひと月あまり。雲の国の部隊は龍央以北に退き、事実上いくさは終わった。
むろん、戦後処理や数々の折衝は残っていたにせよ、とりあえず各国は静かに年明けを迎えていた。
森の国と雲の国の国界にある山里。
セキヤの率いる「朱雀」の組織は、そこを根城にしている。過去、なんどか拠点を移動させたが、ここ五年ばかりはいちばんはじめに開墾した村に腰を落ち着けていた。
「どうして止めなかったのだ、馬鹿者!」
扇をぱしりと卓に打ち付けて、加煎が叫んだ。
「いいじゃんか、べつに」
平気な顔をして、刃は言った。
「セキヤが決めたことなんだから」
「その尻拭いをするのは、私だぞ。いや、私だけではない。貴様や醍醐も……」
「だから、いいじゃんか、それで」
刃は引かなかった。
「いままで、ずっとそうだったんだし」
「西方の後始末も終わらぬうちに雨の国をつついたらどうなるか、貴様とてわかっておろうが」
「それでも、やるって言ったんだよ。セキヤは」
「兵部にもう一押し、か?」
「らしいね」
加煎は扇をぱさりと開いた。せわしなく揺らしながら、
「まったく、私にひと言の相談もなく……」
「言ったら、反対するじゃん」
「当たり前だ。水郷寺など、諸刃の剣ではないか」
「それをうまく使うのが、あんたの仕事だろ」
「貴様……」
加煎は扇を持つ手を振り上げた。刃がすばやくうしろに飛ぶ。そのとき。
「刃、こっちにいるかー?」
扉が開いた。反射的に、加煎が手を下ろす。
「なに?」
刃も構えを解いて、戸口を見た。
「……またかよ」
扉に手をかけたまま、醍醐がため息をついた。
「おまえら、セキヤがいないからってやり合うのはいい加減にやめろよ」
「やり合ってなどいませんよ」
常の口調に戻って、加煎は言った。
「忌憚なく、意見の交換をしていただけです」
「忌憚がなさすぎるんだよ」
醍醐は扉を閉めた。扇をちらりと見て、
「針、仕舞えよ」
「わかっていますよ」
切れ長の目を細めて、加煎は扇の細工を元に戻した。
「おまえも命懸けだねえ」
刃を見遣って、言う。
「もう慣れてるよ」
憮然として、刃は答えた。
セキヤはいま、雨の国の水郷寺にいる。雲の国の兵部尚書を追い込むために、絶大な勢力を誇る水郷寺に潜入したのだ。
当初、セキヤは雨の国の内務尚書で、事実上国政を取り仕切っている皆瀬という人物と接触するはずだった。が、皆瀬が若き国主と対立していることを知り、より利用価値のある水郷寺にターゲットを変更した。
国主と皆瀬が共倒れになったあと、権力を握るのは水郷寺の門主とその側近だ。もっとも、水郷寺は「風見鶏」と言われるほど節操がなく、手を組むにはかなり用心の必要な相手であった。
「十人ばかり水郷寺に連れていくが、それでいいか」
「結構ですよ。でも、刃は置いていってくださいね」
「へ、なんでだよ」
醍醐は眉をひそめた。
刃も怪訝そうな顔をしている。セキヤの密書を持って一旦は帰還したが、またすぐに水郷寺へ赴くつもりだったのだ。
「セキヤには、さっさと仕事を終わらせて帰ってきていただきませんとね」
「……刃は、質草かよ」
「ええ。私の目の届かないところで、勝手をされては困ります」
加煎は扇の先で刃のあごを持ち上げた。刃は無表情のまま、じっとしている。とりあえず害意がないことはわかっているようだ。
「セキヤに伝えてください。刃があなたを待っている、と」
「だんだん、やり方がいやらしくなってないか?」
「なんと言われようが、セキヤの命には代えられませんからね」
「へいへい。で、俺はどうでもいいんだな」
投げやりな調子で、醍醐がぼやく。加煎はうっすらと笑った。
「あなたは、いつでもセキヤのために死ねるでしょう? そんな人の心配は、しても無駄です」
「つらいんだろ。要するに」
ぼそり、と刃が言った。加煎は扇を下ろした。
「……貴様に言われる筋合いはない」
冷ややかな声。わずかに唇が震えている。
「了解」
刃は軽く手を上げた。すたすたと扉に向かう。
「おれ、外のやつらを手伝ってくる」
返事を待たずに、刃は房から出ていった。
「……なんだかなあ」
醍醐はふたたび、ため息をついた。
「まいるな、あいつには」
「本当に」
加煎はぷいっと横を向いた。
「悔しいですよ」
「ま、セキヤを壊したやつだから」
「あの子でなきゃ、とっくに始末してます」
「だろうな」
「……連れてって、いいですよ」
「うん?」
「刃のことです。水郷寺に連れていってもいいですよ。そのかわり、さっさと細工を済ませてくださいね。次の算段もしなくちゃいけませんから」
加煎の頭の中で、雨の国と雲の国をぶつける策が構築されつつあった。
「わかった。十日、くれ」
「いいでしょう。そのあとで、雲にも餌を蒔きます。そのときは、私とあの子で内宮に行きますからね」
「おまえと刃で?」
「心配しなくても、大丈夫ですよ。あなたが水郷寺に行っているあいだに、根回しはしておきます」
「セキヤが承知するかどうか、わからないぞ」
「してもらいます。今回はこちらが譲ったのですから」
「……やっぱり、かなりやらしくなってるな」
「お誉めの言葉と思っておきますよ」
加煎はそう言って、婉然と微笑んだ。
その年の夏。
雨の国でクーデターが起きた。内務尚書の皆瀬を中心としたその企ては未然に防がれたが、それに雲の国が関与していたという噂が流れ、丞相は早々に辞任した。
政敵がいなくなった形の兵部尚書は、さらに忌まわしい噂の種となった。雨の国をかき回し、丞相を失脚させたのは兵部である、と。
こののち、雲の国の属国の独立運動がますます活発になる。
森の国が独立したのは、その五年後のことであった。
(了)
戻る