『月彩』
月の彩に、染まっていく。

byつう

 その部屋の、桟の数や欄間の彫りや、ふすまや天井の染みまでも、イルカはもう覚えていた。
 明かりを消したとて、目の奥にそれらはくっきりと焼き付いている。
 繰り返される愛撫と情交。カカシはいつも、今生の別れとばかりに深く激しく求めてくる。
「駄目ですよ」
 荒い息の中、カカシは言う。
「まだ、離れないでください」
 どうやって離れるというのだ。この状況で。
 イルカは下肢の痺れに耐えつつ、そう思った。上体は夜具に押しつけられ、脚は表現するのもはばかられるような格好でカカシの体に絡みついているというのに。
 この期に及んで、なにを心配しているのだろう。自分はいつも、求められるままに応じている。それが、暗黙の了解であるのだから。
「動いてください」
 カカシが体を起こした。イルカは眉間にしわを寄せた。
「……無理です」
「どうして」
「痺れてしまって……力が……」
 入りません、と言う前に、カカシは事情を察したらしい。
「わかりました。それじゃ、そのままで」
 カカシはイルカの脚を力まかせに押し広げ、中心に体重をかけた。
「……!」
 声を上げることさえできない。息をするのも苦しくて。
 その場所に集まる熱が、内部を食い尽くしていく。
 もうすぐだ。もうすぐ、楽になれる。
 一刻も早くその瞬間が訪れるように、イルカはカカシの肩を掴んで喘いだ。


 まるで、夜鷹のようだ。
 終わったあと、湯を使いながらイルカはいつもそう思う。
 花街に住む娼妓ではない。夜な夜な、男の袖を引く最下層の遊び女。欲望の処理のためだけに、脚を開く。
 相手が特定されているだけ、まだましか……。
 イルカは自嘲した。体を丁寧に洗い、あちこちにつけられた跡を確認する。
 胸、肩、脇、そして、下肢のあいだ。いつものことながら、多い。
「……大丈夫、だな」
 これなら、衣服で隠すことができる。忍の服に着替えて、イルカは座敷にもどった。
「カカシ先生」
 座敷の隅で、居住まいを正す。
「それでは、これで」
 軽く一礼して、イルカは立ち上がった。カカシは酒を飲みながら、それを見送った。


 これでもう、何回目だろう。すすきが原で腕を掴まれたあの日から、イルカは自分の体をカカシに与え続けている。
 それは、契約とでもいうべき行為だった。カカシの求めに応じるかわりに、理不尽な真似をしないという密約。
 あれから二カ月がたとうとしている。夜風はすっかり冷たくなり、星の配置も変わった。冬の星座が、濃い紫紺の空一面に広がっている。
 カカシは、ほぼ一週間に一度の割合でイルカを誘った。夜勤のあとや遠出の仕事があったときには丁重に断ったが、翌日には必ず求めに応じるようにしている。
 中途半端な口実を設けて逃げたりすれば、今度こそ玄関を壊されそうだ。いや、玄関だけでなく、この身も。
 こちらが受容の態度を示せば、カカシはそれほど無茶な要求はしない。ただ、イルカにとってはそのほとんどがはじめての経験であったため、「無茶」と「普通」の境界線は、はなはだ不明瞭であった。
 それでも、当初は力でねじ伏せるような関係であったものが、このところ少しずつ変化してきたのは確かだ。
 カカシはまず、イルカの体をそういう状態にしてから、自分の要求を受け入れさせている。
 おそらく、そういった閨の技術は花街で覚えたのだろう。カカシは若くして上忍になり、十代のころから高級妓楼に通っていたと聞く。めったに客と床入りしないという最高級の妓女と馴染みであったらしいから、どこをどのようにすればいいか熟知しているのも頷ける。
「そろそろ、いいですか」
 カカシが訊く。
 躯の芯にゆらゆらとした火をともされて、イルカは首を縦に振るしかなかった。
 押し込まれる情熱。強く主張するカカシの体に、イルカは無条件で応える。深い場所で、あるいは浅い場所で。
 体が結合しているあいだは、なるべくなにも考えないようにしていた。そのことに集中していれば、時間が早く過ぎることがわかったから。
 自分の声を聞くことだけはまだ慣れなかったが、それとて事を進めるためなら、たいして抵抗を感じなくなったのだから、不思議なものである。
 カカシの家は、里のはずれにある一軒家だ。隣家とはかなり離れている。そのうえ壁も厚く柱も太く、戸を閉めていれば屋外に声の漏れる心配はない。
 自分が、こんなふうになるなんて思ってもいなかった。
 恐怖と屈辱しか感じなかった、最初の交わり。あれから、まだ三月ほどしかたっていない。
『動かないでくださいね』
 イルカの首にクナイをぴったりとあてて、カカシはそう言った。そして……。
 これから、自分はどうなるのだろう。このままずっと、あの男に組み敷かれ、翻弄され、欲情の受け皿となって流されていくのだろうか。
 自宅までの道すがら、イルカはぴりぴりとした冷気を頬に感じていた。


 事務局の仕事は、あいかわらず煩雑だった。
 ファイルの分析はほぼ終盤を迎えて、中忍の任務の振り分けや、下忍の鍛練のために各方面からの引き合いも多かった。火影はそれらの要請に応じて、さらに細かい個別の資料の作成をイルカに命じていた。
「だれぞに手伝わせようかのう」
 あるとき、火影は言った。
 場所は、文庫である。イルカは跪座して、その言葉を聞いた。
「機密に関わることもあるゆえ、いままではそなた一人にまかせていたが、こうも作業が増えては事務方に差し支えるであろう」
「ご配慮、いたみいります」
 イルカは静かに答えた。
「ですが、いまのところ支障はございませんので、どうぞご放念ください」
「ならば、よいのだが」
 なにやら、含みのある物言いである。
 落ち葉の舞い始めた庭をながめながら、火影は茶を喫した。しばらく、沈黙が続く。イルカは退出を促す声を待った。
 湯呑みが茶托にもどって、しばらくたったころ。
「雲の国に、間者を送らねばならん」
 火影が口を開いた。
 ……またか。
 イルカは心の中で独白した。このところ、雲の国の国境周辺が騒がしい。先日も細作を何人か捕縛したばかりだ。
「向こうに住む『草』と接触させる。顔の知られていない者を選んでおいてくれぬか」
「私が、ですか」
 一介の中忍の仕事ではない。
「何人か、候補を挙げてくれればよい。明日の朝までに、ここへ」
「承知」
 イルカはふかぶかと一礼し、文庫をあとにした。


 このような人事は、本来、上忍の管轄である。
 受付事務が終わったあと、イルカは資料を繰って雲の国に送る人材をピックアップした。面の割れていない者となると、必然的に新人に白羽の矢が立つ。
 単なる連絡係ならCランクの仕事だが、向こうでなにか工作をするのであれば、もうひとつ上のランクになる。
 それに関して火影の指示はなかったが、場合によっては雲隠れの忍とやり合うこともあるかもしれない。
「こんなもんかな」
 五人ばかり選んで、これまでの資料とともに袋に入れる。それを引き出しに仕舞い、イルカは立ち上がった。
「さて、と」
 もうすぐ日付が変わる。久しぶりに、遅くなった。「一楽」でラーメンでも食べて帰ろう。
 事務局の鍵を閉めて、外に出る。冷たい空気が、つんと鼻についた。昼間はそうでもないが、さすがに夜は寒い。
 なにか羽織るものを持ってくればよかったかな。
 そんなことを考えていると、前から見知った人物が歩いてきた。
「カカシ先生……」
「ああ、よかった」
 カカシは、ほっとしたような顔で、そう言った。
「すれ違いにならなくて」
「すれ違い?」
「いま、イルカ先生んちに行ったんですよ。声をかけたけど、返事がなくて」
 こんな時間に、家に来たというのか。
 イルカは眉をひそめた。まさか、玄関を壊してないだろうな……。
「あ、大丈夫ですよ」
 イルカの懸念を察したのか、カカシは大げさに手を振った。
「中に人がいないってことぐらい、すぐわかりましたから。だから、残業でもしてるのかと思って」
「……なにか、ご用ですか」
 わかっている。カカシの用など。しかし、それを自分から口にする気はさらさらない。
「ええ。行きましょうか」
 カカシも言う気はないらしい。たしかに、その必要はなかった。
 事務局で菓子でも食べておけばよかった。
 空腹を感じながら、イルカはカカシのあとに続いた。


 その夜。カカシはいつにもまして執拗だった。
 体中を彷徨する手も唇も、痛いほどの力でイルカを貪って、なかなか最後の交わりまでたどり着かなかった。
 もう、十分なのに。
 混濁した頭で、イルカは考えた。自分はすでに、十分な状態になっている。カカシもそうだ。それなのに、なぜ先に進まないのだろう。
 己の熱に耐えているのか、カカシの苦しそうな顔が見える。
「あの……カカシ先生……」
 声がかすれる。
 言いたかった。本当は。「もういい」と。
 もう、いい。早く来てほしい。そうでなければ、おかしくなってしまう……。
 しかし、それを口に出すわけにはいかない。
「……どうしました?」
 わずかに笑みを浮かべて、カカシは顔を上げた。
「なんでも……ありません」
 イルカは顔をそむけた。
 ふつふつと沸き上がる、マグマのような欲情。それを、この男に知られたくなかった。
「そろそろ、いいですか」
 ようやく、カカシがそう言った。視線を落として、頷く。
 導かれるまま片脚を高く掲げ、イルカはカカシを受け入れた。上体がねじれて、苦しい。が、それよりも、ようやく満たされつつあるものの方が数段、勝っていた。
 天井に、壁に、言葉にならぬ声が響く。
 イルカはそれを、まるで他人のような気分で聞いた。

気だるい、事後
 湯を使い、身仕度を整えたときには、未明近くになっていた。
「帰ります」
 座敷に跪座して、イルカは言った。
「また、来てくださいね」
 いつものように、カカシは答えた。
 一礼して、座敷を出る。
 重い体をなんとか動かして、イルカは家にもどった。
 そして。
 その日から、カカシは姿を消した。事務局には、岩の国への出張届が提出されていた。
 いつのまに、こんなものを出したのか。イルカには心当たりがなかった。
 カカシだけの単独任務。それはおそらく、火影の直命を受けての極秘任務だろう。
 癖のある字で書かれた出張届を見ながら、イルカは昨夜のことを納得した。
 カカシは、ゆうべ遅くに指令を受けたに違いない。だから、あの時間になってから自分を誘いに来た。
 おかしいと思ったのだ。いつもなら、終業前に事務局にやってくるのに。
 出張期間は十日となっている。が、はたして、それで済むのだろうか。
 カカシの場合、単独任務は概して危険である。いつぞやのように、深手を負うかもしれない。いや、最悪の場合は……。
 そこまで考えて、思考を止める。
 背筋に、冷たいものが流れた。



 あの男がいなくなれば、自分は解放される……。
 イルカは、己の考えに戦慄した。



『月彩』  終



物語は『月船』へと続きます。

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