『月窟』
月の窟に、降りたつ。

byつう
雲の国に送り込んだ間者が連絡を断った。
「草」と呼ばれる諜報員と接触した直後のことであったらしい。
「繋ぎを取ってすぐってのが、気になるわね」
紅は思案顔で、そう言った。
「もうちょっと、泳がしといてくれると思ったんだがなー」
アスマは、紫煙とともにため息をついた。
「まあ、そんなことはこっちの都合ですからねえ」
カカシは肩をとんとんと叩きながら、首を振った。
三人が顔を突き合わせているのは、火影の館の文庫であった。とある任務のため、彼らは時折、ここで会合を開いていた。
「どっちにしても、たいした情報は持たせてないから、大事はないと思うけどねえ」
「そりゃ、大勢に影響はないさ。捕まったやつの命までは保証しねえがな」
紅がちらりと横を見て、
「あんたにしちゃ情けのカケラもないこと言うわね、アスマ」
「事実だろうが」
「仕方ない。援軍、送りますか」
カカシの言葉に、二人の上忍は顔を見合わせた。
「……なにか?」
異様な雰囲気に、カカシは眉を上げる。
「いや、その……な」
アスマが紅に話を振る。
「……そうね」
なにやら、納得して頷く。
「嫌ですねえ。二人して、見つめあっちゃって」
「おまえが変なこと言うからだよ」
「は? なんか変でしたか」
「熱でもあるんじゃないの?」
紅が遠慮会釈なく、言う。
「たかが駒ひとつのために援軍出すなんて、あんたの言葉とは思えないわね」
「誉められてると思っときますよ」
カカシはにんまりと笑った。
「捨て駒にしてもいいんですけど、拾いにいって、ついでにもうひと騒ぎ起こすのも面白いかと思って」
「そういうことなら、前言撤回するわ」
紅は資料をめくって、雲の国の地図を出した。
「最後に連絡してきたのは、ここからだったから……」
地図をはさんで、三人は今後の作戦を打ち合わせた。
事務局に回ってきた行方不明者のリストの中に自分の見知った名前を見つけて、イルカは少々落ち込んでいた。
間者として適当な人材を選んでくれと火影に言われたのは、かれこれひと月前。その後、時期をずらして幾人かが雲の国に潜入している。
忍の仕事に危険は付き物だ。ましてや、諜報活動は。
だから、無事に任務を終了したという報告書を受け取るときは、それがどんなに些細なものであってもうれしい。
終業時間まであと五分だ。一日分の報告書をひとまとめにして、袋に入れる。
「んじゃ、お先に」
同僚が、イルカの肩をぽんと叩いて出ていく。今日はなにやら約束があるらしい。
少し早いが、そろそろ帰ろうか。
引き出しの鍵をしめながらそんなことを考えていたとき、ドアが開いた。
「今日は早仕舞いですか」
カカシだった。
「あ、いいえ。なにか、ご用ですか」
「いや、べつに、ここには用はないんですけどね」
事務局にはないが、イルカにはある。要するに、誘いにきたということだ。
「……わかりました。あとで、伺います」
「待ってます」
それだけ言うと、すたすたと出ていく。
今回はずいぶん、間が空いた。カカシの家に泊まったとき以来だから、二週間以上たつ。
いや、実際は、五日ばかり前にカカシがイルカの家に来たのだが、そのときは結局、交渉を持たなかった。久しぶりに二人で酒を飲み、イルカが先に眠ってしまったから。
もっとも、あの男がその気なら、無理矢理にでも起こしただろう。でも、そうしなかった。
あれは意外だった。しかし、ありがたくもあった。できれば、あの家では同衾したくない。
最初のときの、恐怖と苦痛。もし、事の最中にそれらを思い出してしまったら、自分はどうなるかわからない。
冬の空に、白い月が浮かんでいる。空気が肺に到達するのがわかるほど、寒かった。いつもの道を、イルカは足早に歩いた。
膳の上に、杯がふたつ乗っていた。
「飲みましょうか」
カカシはイルカに、杯を差し出した。
「……いただきます」
イルカは杯を受け取った。
どうも居心地が悪い。いままでここで飲み食いをしたことはないし、ましてや自分はもう湯を使い、夜着に着替えている。この状態でカカシが手を出してこないのは、なにやら違和感すら感じられた。
「なにか、あったんですか」
酒を飲みながら、イルカは訊いた。
「なにか、とは?」
「いえ、その……いつもと様子が違うので」
「そうですかねえ。ま、機嫌はいいですけど」
「は?」
「だって、久しぶりにイルカ先生が来てくれましたし」
イルカは杯を落としそうになった。
なんということを言うのだ。この男は。
機嫌がいいなどと、嘘ではなかろうか。この前、自分が酔い潰れてしまったのを根にもっているのかもしれない。
イルカは杯を置いた。
「どうしました?」
「もう、結構です」
「口に合いませんでしたか、この酒は」
「いいえ。そういうわけでは……」
「落ち着きませんか」
ずばりと言われ、イルカは下を向いた。
膳が脇によけられ、カカシのひざが近づいてきた。大きな手が、夜着の襟をくつろげる。
「それじゃ、始めましょう」
いつも通り、カカシは宣言した。
いったい、いくつ跡をつけるつもりなんだろう。
指と舌とで攻め立てられ、イルカの体はすでにじっとりと汗をかいていた。
その汗を味わうように、またカカシの唇が彷徨する。ところどころで立ち止まってきつく吸い、あるいはときに歯をたてて、全身に紅い跡を残していく。
「やめて……ください」
耳の下に唇が来たとき、イルカは顔をそむけてそう言った。
「そこは、やめてください」
いくらなんでも、外から見える場所は困る。仕事のときは髪を束ねているので、隠しようがない。
「じゃ、どこならいいんです」
どこもなにも、もうあちこちに跡をつけているくせに。
この男とこういう関係になって以来、人前で着替えすらできなくなってしまった。このうえ、もし怪我でもして医者にかかることになったら……。考えるだに恐ろしい。
「言ってください」
「そんなこと、言えません」
「それじゃ、勝手にさせてもらいます」
カカシはイルカの首筋に、噛みつくように口付けた。
どくん、と心臓に響く。イルカは思わず、身をそらした。背中に手が滑り込む。
「そろそろ、いいですか」
いつもの確認。イルカはひざを上げた。入り込んでくる、熱い体。
「は……あ……」
吐息とともに声が漏れる。
このあと自分がどういう状態になるのか、もうイルカにはわかっていた。
気恥ずかしくて、まともに自分の体を見ることもできない。
風呂場で汗を流しながら、イルカはため息をついた。
首の付け根にも跡をつけられてしまった。いまは冬だからいいが、夏場にこんなことをされたらたまらない。
そこまで考えて、イルカは自分の思考に驚いた。
この関係が続くことを、自明の理として受け入れてしまっている。あんなに厭わしかったはずなのに。
イルカは桶に水を入れ、それを頭から一気にかぶった。
服を着替えて座敷にもどると、カカシが夜具の上で横になっていた。
めずらしいこともあるものだ。たいてい、事が終わったあとは飲み直しをするのに。
なにげなく、枕元にすわる。
「え……」
イルカは目を見張った。
カカシが、眠っていた。身仕度を整えてはいたが、護身用の小柄のひとつも持たずに熟睡している。
イルカはそろそろと、部屋の隅にある衣桁に近づいた。先刻脱いだ上衣を探る。
ふたたび枕元にもどったとき、その手にはクナイが握られていた。
殺せる。
イルカは思った。
いまなら、殺れる。
たとえ相手が、里一番の遣い手であるこの男でも。
イルカは、カカシの首にクナイを近づけた。延髄に突き刺せば、しくじることはない。間違いなく、即死だ。
脳裡に、この数ヶ月のことが次々と浮かんだ。この男が自分にしてきたことのすべてが。
ぐっと、手に力が入る。大きく息を吸い込んで、イルカは狙いを定めた。
息が白い。
冷たい風が頬をなぶって過ぎていく。
イルカは自分の家に向かって歩いていた。クナイは、上衣の下にある。
結局、できなかった。あの男があまりにも無防備だったから。
静かな寝息。満ち足りた顔。
あれほどの思いをし、解放を望んでいたにも関わらず、実際にあの男の命を手中にしたら、それができなかった。
許したわけではない。決して。しかし……。
いまの、この心を表わす言葉を、イルカはまだ見つけてはいなかった。
『月窟』 終
物語は『寒月』へと続きます。
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