『弦月』
月の矢が、放たれる。

byつう
はからずもカカシの家に泊まってしまった、その翌日。
イルカは昼まで熟睡してしまい、半分パニック状態で事務局に飛び込んだ。
「あれえ。おまえ、休みだったんじゃないの」
同僚が不思議そうな顔で、言った。
「え、休みって……」
「届、出てたぜ。ほら」
同僚が差し出した欠勤届には、見覚えのある癖字が並んでいた。
あの男が、これを出したのか。
目が覚めたとき、すでに日は高くのぼっていて、カカシの姿はどこにもなかった。イルカは慌てて身仕度をして、ここまでやってきたのだ。
「ああ、その……具合がよくなったんで」
適当に言葉をにごす。
「そりゃ、よかったな。でも、無理すんなよ。おまえ、ここんとこ上忍の人たちから目、つけられてるだろ」
「え……」
一瞬、カカシの顔が浮かぶ。
「紅さまなんかさあ、今朝ここに来て、なんて言ったと思う?」
「……さあ」
あの男のことではなかったと安堵しながら、先を促す。
「『ちょっとぐらい文句言われたからって、休むんじゃないわよ』だってさ。美人がきついこと言うと、ますますこたえるよなあ」
べつにそれが原因ではないのだが、本当のことをここで言うわけにもいかない。カカシに二度も挑まれて、失神したなどと。
「あ、そうだ。出てきたばかりで悪いんだけどさ。これ、火影さまに届けてくれないか」
雲の国に関する書類らしい。
「急がないけど、今日中の方がいいらしいから」
このところ、報告書の分析業務をしている関係で、火影との連絡はほぼイルカが一手に引き受けている。
「わかった。行ってくるよ」
イルカは書類袋を手に、事務局を出た。
機密文書ではなさそうだから、館の表口で取り次ぎを頼めばいいだろう。
イルカは火影の館に向かって歩いた。修錬場の横の道を通る。下忍になったばかりの子供たちが、道場で体術の稽古をしていた。
いずれ、あの子たちも実戦に出る。何人残るだろうか。現実は決して、甘くはない。
「なにか、用?」
上から、声が降ってきた。
「あ……いえ、すみません」
イルカは二階の窓を見上げて、答えた。
「あんた、今日は休みだったんじゃないの」
紅は、不審そうに言った。
「はい。あの……具合がよくなったので、出てきました」
「そ。よかったわ」
「え?」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「なによ。なんか文句あるの」
「いいえ、べつに」
「仮にも忍を生業とするのなら、自分の体調管理はしっかりしてもらわなくちゃね」
「は。肝に銘じます」
「いいかげん、手を抜くことも覚えるのよ」
それだけ言って、紅は建物の中に消えていった。
だれもいなくなった窓を見つめながら、イルカは紅の一言一句を反芻した。
まさか、自分とカカシのことを知っているわけではないだろうが、彼女の言いようはいまのイルカにぐさりと突き刺さった。
無茶はしても、無理をしているつもりはなかったのだが。
イルカは、ふたたび火影の館に向かって歩き始めた。
報告書の分析と事務局の日常的な仕事を平行して行なう日々が、またしばらく続いた。ときおり火影の館に呼ばれて、雲の国の情報収集の手伝いもさせられたりして、紅の言うように「手を抜く」ことはなかなかできなかった。
「おまえさん、自分が何日休んでないか知ってるかい」
ある日、酒席に誘いにきたアスマが言った。
「事務だけだったら、いいさ。けど、夜勤も出張も入れて、もう十日以上仕事してんだぜ」
「はあ。もう、そんなになりますか」
まるで他人事のように、イルカは言った。
以前のように、カカシから逃げるために仕事を入れているわけではなかったので、あまり実感がない。
「ったく、のれんに腕押しだな」
アスマは頭をかいた。
「もう、今日は付き合わなくていいから、おまえさん、あしたは休め」
「そう言われましても……」
「これは、命令だ」
ぴしゃりと言って、アスマは勝手に、イルカの休暇届を書いてしまった。
「これを反故にしたら、命令放棄で懲罰だからな」
念押しして、アスマは帰っていった。
イルカは仕方なく、届を処理済みの引き出しに入れた。
思いがけず、休みを取ってしまった。
明日はどうしよう。晴れていたら、蒲団を干そうか。
そんなことを考えながら、イルカは自宅の前まで帰ってきた。ポケットから、鍵を出す。
「あー、よかった」
背後で、声がした。
「寒いから、なかなか帰ってこなかったらどうしようかと思ってましたよ」
カカシは細長い箱を抱えて、心底ほっとしたように言った。
「カカシ先生、どうして……」
イルカは狼狽した。今日はなんの約束もしていなかったはずだ。いつぞやのように急に予定が変わったとしても、なぜ、ここにいるのだ。
「早く開けてくださいよ。足元が冷えちゃって、じんじんするんです」
いったい、いつから待っていたのだろう。これでは、家に上げるしかないではないか。
できれば、カカシをこの家に入れたくはなかった。最初のときのあの恐怖が、まだ払拭されてはいないから。
「イルカ先生?」
カカシが、イルカの顔を覗き込む。
「……すみません。いま、開けます」
イルカは鍵を差し込もうとして、ついそれを下に落としてしまった。
「あ……」
「俺が、開けますよ」
さっと鍵を拾い、カカシは鍵穴にそれを差した。カチャリ、と鍵の回る音。
「入らないんですか?」
カカシはドアを開けて、言った。イルカは、まるで牢獄に入るような気分で、一歩を踏み出した。
入ってすぐに、イルカは奥の襖を閉めた。あのあと、建具屋に一日で直してもらった障子や窓を見るのは嫌だった。
六畳間の卓袱台の前に、座蒲団を置く。
「どうぞ」
カカシは箱を卓袱台に乗せた。
「お土産です」
「え?」
「こんな時期にどうかとも思ったんですけど」
カカシは包みを開けた。中には「喜八」の冷酒が入っていた。いつぞや、利き酒で全問正解したときに飲んだ酒だ。
「飲みませんか」
カカシは、冷酒の栓を抜いた。
この男にも、少しは罪悪感というものがあるのだろうか。ここで自分が行なったことの意味を、多少なりとも理解しているから、こんなものを持ってきたのかもしれない。
どうせ、また関係を持つことになる。この前、あの家で自分がどんな状態になったのかぐらい覚えている。
ほしいと言われ、自分はそれを承諾した。ほしいのなら、全部与えてもいいとさえ思ってしまった。そのかわり、忘れさせてほしい。自分が背負っているもののすべてを。
そしてあの日、自分は意識を放った。夢さえ見ない、深い淵に落ちて。
「いただきます」
イルカは湯呑みを用意した。つまみになりそうな乾物を皿に盛る。
「たいしたものは、ありませんが」
「十分ですよ」
カカシは酒を注いだ。イルカは湯呑みを口に運んだ。
懐かしい味がした。こんなふうになる前は、カカシとともに杯を交わす日もあったのに。
あの日以来、ふたりで酒を飲んだことなどない。もちろん、「喜八」にも行っていなかった。
やたらと冗舌な、あの店主は元気だろうか。自慢の酒は、またきっと種類が増えているに違いない。
イルカは杯を重ねた。なにやら、畳の縁がぶれて見える。
酔ったな。自分でもわかる。でも、いい。これで、抱かれたときになにも思い出さずに済む。
この男の声だけを聞いて、望む通りに体を開けばいい。
イルカは卓袱台に頬をつけた。急速に、眠気が襲ってくる。
「イルカ先生? 大丈夫ですか」
声が、遠かった。イルカはぼんやりと、カカシを見上げた。
「カカシ先生……」
「はい?」
「どうして……おれなんか抱くんですか」
ずっと心の底に閉じ込めていた問いを、口にする。
カカシは、困ったような顔をした。
「俺にも、わからないです」
眠りに落ちる直前に、そんな声を聞いたような気がした。
眩しい。
イルカは、六畳間で目を覚ました。冬蒲団が、肩まで掛けられている。
湯呑みも皿も、そのままの状態で卓袱台に乗っていた。
昨夜の記憶を辿る。
カカシが来て、酒を飲んで、そして……。
なにもなかった。
あの男は、自分に触れずに帰っていったのだ。
こんなことははじめてだった。イルカは、複雑な思いで朝日の差し込む窓を見つめていた。
『弦月』 終
物語は『月窟』へと続きます。
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