若木 byつう
森の国の王城では、今日も滞りなく政務が執り行なわれていた。
初代国主の崩御から一年。森の国は五家七公と呼ばれる重臣たちの合議によってまつりごとを行ない、近隣諸国ともおおむね平穏な関係を築いている。
長く森の国を属国としていた雲の国も昔年の勢いはない。国境の砦も、ここ数年は両国の親善の場となっていた。
「おや、あなただけですか」
戸口から、玲瓏な声。
前軍務尚書、現在は軍務顧問の地位にある男が視線を声の方へと向けた。
「おう。どうした」
「風が来ていると聞いたのですが」
加煎はぱらりと扇を広げ、房の中ほどへと進んだ。
「ああ。ついさっき、刃のとこへ行ったぜ」
書きかけの書類を、くしゃくしゃと丸めてごみ箱に投げる。加煎は眉をひそめた。
「……なんですか、それは」
「へ? ああ、来月の演習の日程だ」
「そんなものは、書記官に代筆させたらどうです」
「下書きはしてもらったんだがな」
「清書するだけで、このありさまですか」
加煎はため息をついた。書き潰した紙が、すでにごみ箱の半分を占めている。
「あとで私がやりますから、これ以上、紙を無駄にしないでください。公式文書に使われる紙が一枚いくらするか、ご存じですか」
「いや。……おまえは知ってるのかよ」
「当然です」
即答である。醍醐は筆を置いて、立ち上がった。
「やっぱり、俺は刀振り回してる方が性に合ってるわ。近衛の訓練でも視察してくるかな」
「その方が有意義でしょうね。先日、新兵が配属されたばかりですし」
加煎は新しい紙を用意し、さらさらと書類を作成した。
「できました」
早い。醍醐は肩をすくめた。
「さすがは内務どの。お見事でございますな」
「わざとらしい物言いは不快です」
前内務尚書、現在は内務省後見の役職にある男が、ぱし、と卓に扇を打ち付ける。醍醐はふたたび、肩をすくめた。
「そりゃ悪かった。……助かったよ」
「……いいえ」
小さな声。醍醐は書類に押印し、文筥に納めた。
「で、おまえ、風になにか用があるのか?」
あらためて、訊ねる。
「文遣いを頼もうと思ったのですが」
「ああ、例のやつか」
醍醐は、丸い目と意志の強そうな口元の木の葉の忍を思い出した。加煎がその男と文の遣り取りをしていることは、森の国と木の葉の上層部では公然の秘密となっている。なにしろ、一歩間違えば機密漏洩罪か反逆罪なのだから。
『間違えなければいいのでしょう?』
以前、加煎はそう言った。そして現在に至るまで、その「間違い」は起こっていない。
大国の木の葉の国と、小国の森の国。たしかに国土の広さや軍備においてはそうだが、いま、森の国を小国と侮る者はいない。諸国と深く結びつき、あらゆる利害に関係している森の国は、各国にとって一目置く存在であった。
「風は今晩、俺んとこに泊まるから」
醍醐は王城のすぐ近くにある屋敷町に居を構えている。
「おまえも来い」
「……よろしいので?」
「ああ。今日は香李(こうり)がガキどもを連れてくると言ってたから、騒がしいだろうがな」
香李というのは醍醐の養女で、礼部(儀礼・外交を司る部署)尚書の嫡男に嫁して二男二女をもうけていた。
「では、お言葉に甘えて」
加煎は控え目にそう言って、優雅に一礼した。
王城の正殿。庶務を担当する中書省の一室に、風はいた。
「それにしても、五代目も思い切ったことをしたね」
半年ばかり前に中書省令(長官)を拝命した刃が、霧の国産の緑茶を湯呑みに注ぎながら、言った。
「水郷寺にきみをひとりで遣るなんて」
「大人数だと、警戒されるから」
こともなげに、風は答えた。
「なるほど」
風は今朝方まで、雨の国の水郷寺にいた。木の葉の国の五代目火影の文遣いとして。
水郷寺は雨の国の民衆の絶大な支持を得ている。過去、歴代の国主と対立して何度も存亡の危機に直面しながらも、陰で「風見鶏」とも噂される変わり身の速さによって、その勢力を保ってきた。ここ数年は寺としての本分に立ち戻っていたようだが、昨年来、また俗世のあれこれに触手を動かしているらしい。
セキヤがいなくなったからだろうな。
刃は考えた。まったく、あいかわらず大局の見えぬやつらだ。
森の国はセキヤひとりで持っていたわけじゃない。たしかに、雲の国から独立を勝ち取ったのはセキヤの力が大きかったが、彼はいわば「象徴」だった。もっと砕けた言い方をすれば、カリスマである。
セキヤは自分が五代目の「朱雀」であると公にして、民の心を掴んだ。それがいちばん、民衆を納得させるだろうと計算したから。
かつて森の国を治めていた「朱家」の末裔。長く雲の国に搾取されてきた人々は、「朱雀」の名に国の未来を託した。
むろん、セキヤはそれだけで満足しなかった。自分の後に続く者たちを育て、鍛え、国の礎を築いたのだ。
その上に、いまがある。が、おそらく水郷寺の僧侶たちには、その深淵が見えていない。
「だとしても、やっぱりすごいよ。文の内容如何によっては、生きて帰れないかもしれないのに」
それを、中忍ひとりに任す。
かつてセキヤが風や雷を試したように、五代目も彼らの実力を図っているのだろうか。諸刃の剣になるかもしれない「うちは」の力を。
「ぼくひとりなら、なんとでもなるよ」
なんとなく、意地になっているような口調。刃は卓に湯呑みを置いた。
「なにか、あったの」
小さな声で問う。風は、唇を結んだ。
横にすわって、しばらく待つ。湯呑みが口元と茶托を何度か往復した、その後。
「雷が……」
ぼそっと、風が口を開いた。
「うん」
「遠くへ行ってしまったみたいで」
「……そう」
薄々、事情は察していた。「うちは」の血をひく双子たち。彼らを取り巻く環境については、断片的ながら情報を得ていたから。
先月、その双子の弟がなにかしらの不祥事を起こして、しばらくのあいだ禁錮刑に処せられていたらしい。さすがに詳細はわからなかったが、そのことが風の精神を不安定にしているのだろう。
同じ血を持っているとはいえ、風と雷は根本的に違う。おのれを受け入れて気流を掴もうとしている風と、自分の中の「うちは」と対峙している雷。
いつかは道を違えると思っていた。セキヤが予言したように。
『風神の守る砦は決して落ちず、雷神の攻める砦は必ず落ちる』
いずれ、そう噂されるだろう、と。
それぞれの進む道は険しい。なにしろ、先達たちはすでにこの世にいないのだから。
「生ける英雄」と呼ばれた男も、「攻守の要」と称された男も、いまは雲の上だ。
「わかってはいるんだ。雷はぼくじゃないって。ずっと一緒にいたけど、同じものじゃないって」
わかっていても、つらい。それは当然だ。人の心は計算通りには動かない。
「だから、ぼくは……ぼくのできることをする」
「そうだね」
刃は頷いた。
「ひとつずつ、やっていくしかないね。近道なんてないんだから」
「……刃も、そうだった?」
横を見遣って、訊く。
「ぼくぐらいのとき」
「ああ」
そうだ。いまの風とたいして変わらぬ年だった。セキヤとはじめて会って、生きることの厳しさをあらためて知らされた。
あれから長い道程を歩いてきた。ひとつひとつ、石を積み重ねるようにして。
「そうか。……そうだよね」
風は緑茶を飲み干した。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
見上げた瞳に、先刻までの翳りは窺えなかった。自分ひとりで背負っていた重荷を、少しだけ下ろしたのかもしれない。
「どういたしまして」
刃は微笑んだ。
復命は明日でいいと聞いた。それなら、寝殿に部屋を用意させるか。
手配をしようと立ち上がったとき、房の扉を叩く音がした。
「中書どの、入ります!」
きびきびとした声。返事をする前に、扉がばたん、と開いた。
「木の葉の国のうちは中忍に、軍務顧問より伝言です」
銀色の髪と蒼い瞳の女衛士が、直立不動で言った。
「大義」
刃は答えた。中書省令としての態度で、続ける。
「して、口上は」
「ご用が済み次第、近衛府の演習場までお越しくださいとのことです」
「演習場?」
風は首をかしげた。伝令役の女衛士が、くすりと笑って続ける。
「親父ってば、いま、近衛の新米をしごきに行ってるのよ。で、こっちの話が終わったら来てくれって」
伝令は、青藍だった。さらに、いつもの調子で言う。
「今晩、うちに泊まるんでしょ、風。刃も来ればいいのに」
公の場でなければ、身分や地位による格差などないに等しい森の国である。青藍は気のおけない口調で、語を継いだ。
「あ、でも、加煎も来るって言ってたから、メインディッシュは薬草粥かも」
心底、嫌そうな顔。刃はくすくすと笑って、風を促した。
「行っといで。おれはまだ仕事が残っているから、今日は遠慮するよ」
「うん。あの……ありがとう」
ぺこりと、風は頭を下げた。
「じゃ、刃。またねー」
青藍が風の腕を掴むようにして、房を出ていく。
まるで姉と弟のようだな。ふたりの背を見送りながら、刃は思った。
青藍は醍醐の養子の中では最年少で、これまで自分より年下の人間と関わってこなかったが、風が王城に出入りするようになってからは、なにかにつけて世話を焼いていた。
若木が伸びている。木の葉の国でも、森の国でも。ときには嵐に遭いながら、それでも新しい日の光を浴びて。
いつだったか、セキヤが言っていた。彼らはまだ苗木だと。
「うちは」を背負った子供たち。どう育つかは未知数だと。だが、その苗木は着実に成長し、少しずつ根を広げようとしている。
見守っていこう。ずっと。セキヤが見られなかった分を、自分がしっかりと見届けよう。
それが、おれの仕事。
そうだよね。セキヤ。
薄紫に暮れなずむ空をながめながら、刃は過ぎし日々と、これからの日々に思いを馳せた。
(了)
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