彼の地へ byつう
かしゃん。
茶器が床に落ちた。
ああ、そろそろ、頃合ですかね。
加煎はそっと、てのひらを見た。薬草の灰汁で染まった指先。生を刻んできた年月が、そこに集結している。
セキヤ。
私はあなたのものです。
もうすぐ、私の全部があなたのものになる。
現し身のあるうちは叶わなかった夢が、やっと叶う。刃にすら、それを遮ることはできない。あれはいい子だから。
ある意味、あれは五代目に似ている。すべてを見届けるために、これからも苦しみ続けるだろう。けれど。
そのことが自分の仕事だとわかっているから、きっと、最後までやり遂げる。それ以外、あなたに続く道はないのだから。
先に行くぞ。刃。
ずっと貴様に足元をすくわれてきたが、最後に笑うのは私だ。
『仕方ねえな』
そんな顔をしている男がいる。
ええ。そうですとも。
あきらめてください。私もあなたも、セキヤがいちばん大事なんですから。
木の葉の国の「雷神」と「狐」が森の国との親善使節のようになって往き来しはじめて三年あまりがたったころ。
内務省後見として森の国を取り仕切っていた男が、眠るように息を引き取った。
あまりにも突然の死。しかも、あまりにも自然な死。
当初、森の国はもちろんのこと、周辺諸国はその死に疑問を抱いた。しかし。
暗殺などの故意を裏付ける証拠もなく、しめやかに送り儀(葬儀)が執り行なわれた。そののち。
刃は、内務や礼部に今後の指示を出すのに忙しかった。
やはり、これを狙っていたのかもしれない。はじめから、あの男は油断がならないと思っていたが。
刃は、自分が山間の隠れ里にやってきたときのことを思い出していた。セキヤの言うところの「人殺しと泥棒の巣」に。
あのときも、ずいぶんなことをしてくれたよな。
村に来てひと月ほどたったころ。
加煎は刃を試した。薬を使って。
危なかった。なにしろ、自分は「酒姫」として体を売っていたのだ。どんな状況であれ、それなりに反応する体になっていたから。だが。
おれはセキヤのものだ。ほかのだれにも、好き勝手にさせない。
そんな気持ちが、自らの体を傷つけてでもそれを拒否した。
『御意』
加煎は言った。まるで、セキヤに対するかのように。
あのときは、わからなかった。その言葉の意味が。だが、加煎が「御意」と頭を垂れるのは、それまでセキヤ以外にはたったひとりしかいなかった。
木の葉の里の中忍。
セキヤが「宝物」と呼んでいた、うみのイルカ。
それを知ったとき。
会ったこともないその人に、自分はひどく親近感を感じた。苦しかっただろう。つらかっただろう。哀しかっただろう。それでも、きっとその人は、おのれの信じる通りに生をまっとうしたのだ。
信じる道を進むこと。
それが、どれほど大変なことか。
「やつら、もう帰ったか」
醍醐がぼそりと言った。気配を消していたのに、さすがだな。刃は微笑んだ。
「うん。また、来るって」
「そうか」
白髪まじりの頭に手をやる。いまさら言うまでもないが、「やつら」とは木の葉の里の「雷神」と「狐」である。
「もう、雷のやつを引っ張り回す必要もないな」
寂しそうな声。
「そうだね。でも、今度からは『雷神』と『狐』のふたりがかりで、近衛府や衛士府を引っ掻き回してくれるよ」
彼らなら、十分にありうる。
「……そうだな」
醍醐はくすりと笑った。
「されば中書どのは、まだまだ大変ですな」
芝居がかった口調で、言う。
「しかり」
刃も同じ口調で返す。
山深い隠れ里の時代から一緒にいる仲間は、もう少ない。刃は窓の外を見遣った。
秋の空は高い。彼らはそこから、自分たちを見ているのだろうか。
「どうした?」
不安げに、醍醐が問う。刃は思ったままを口にした。
「……だろうな」
同じように視線を飛ばす。
「爺も、親方も、東依も」
みんな、セキヤの仲間だった。みんな、セキヤのものだった。
「加煎も」
醍醐の濃い色の瞳が、一瞬、彼の地にいる者たちをとらえたように思った。
『見るべきほどのものは見つ』
セキヤがそうであったように、きっと彼らも。
歴史が伝説になる。
伝説が物語になる。そして。
それは、のちの世に語り継がれる。
(了)
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