朱家の遺産 byつう
それを知ったとき。
森の国の前内務尚書にして現在は内務省後見の役職にある男は、愛用の扇を床に投げつけたという。
森の国が独立して、二十年以上たつ。数年前に初代国主が没したのち、森の国は五家七公と称される大臣クラスの執政官たちの合議によって国政をおこなっていた。
興国を為した英傑の死後、国が傾くことは古今東西よくある話だが、森の国においてはその心配は皆無と言えた。なんとなれば、初代国主はいわゆるカリスマとしての自分の役割を十二分に知ったうえで、その後の手当をしっかりとして天寿をまっとうしたのだから。
国を創るのは国主ではなく、そこに住む民である。そのことを、初代はよく知っていた。だからこそ、自分が存命のあいだから合議によってまつりごとを執り行なうようにしていたし、自分が見込んだ者たちを積極的に要職に就けた。自らの寿命を察してからは、なおのこと。
現在は前の軍務尚書の養子たちや、初代が野にあったころからの古参の者たちが各部を固め、森の国は盤石の態勢にあった。そんな中。
かつて森の国を治めていた朱家に伝わる三種の神器が、木の葉の国の上忍の手に渡った。いや、厳密に言えば、それらの神器を受け継ぐ者が確定した、というべきか。
一子相伝の忍術の奥義。それが森の国の初代国主で途絶えたことは、森の国の忍であれば、だれもが知っていた。国主には実子はなかったし、それを譲るに足る者もいなかったから。
が。
初代は生前、それを木の葉の里の五代目火影に託していた。暗に後継者を指名して。
「うちは」の血をひく双子たち。そのいずれかが、やがて朱家の奥義を極めるであろう。初代はそう予測した。
『風神の守る砦し決して落ちず、雷神の攻める砦は必ず落ちる』
遠からず、そう噂されるだろう、と。
そして、その予言は現実のものとなった。いま、木の葉の「雷神」と「風神」は、生きながらにして伝説的に存在になっている。
「なにゆえに、あの者なのですか」
怒気を含んだ声。
「こんなことなら、セキヤを木の葉へ遣るのではなかった」
数年前のことを思い出したのか、加煎は秀麗な顔を歪めた。
「いまさら、そんなことを言ってもなあ」
酒を杯に注ぎつつ、醍醐は言った。
「あれはセキヤの、最後の願いだったんだし」
「そうですとも。だからこそ、私は……」
醍醐の手から杯を奪い、ぐい、とあおる。
「覚悟を決めて、セキヤを送り出したんです。今生の別れとわかっていながら」
「だったら……」
「だからこそ、です」
カン、と杯を卓に戻す。醍醐はふたたび、それに酒をついだ。
「私はセキヤも……五代目も信頼していたのに」
すっかり、目がすわっている。これはよほどのことらしい。醍醐は心の中でため息をついた。
この男と関わって幾星霜。情を通じてからもかなりたつが、これはかつて西方の砦でセキヤが消息を絶ったときと大差ないほどの荒れようだ。あのときは三日三晩、ぎりぎりの状態で過ごした。セキヤの帰還があと一日遅かったら、この男は精神の均衡を欠いていただろう。
加煎にとって、セキヤはただひとりの者であったから。
唯一無二の存在。おのれのすべてを賭けるほどの。セキヤが彼岸に渡ったいまも、それは変わらない。
セキヤが興した国がある。セキヤを慕い、ともに戦った民がいる。だからこそこの男はいまだに王城に留まっているのだ。そうでなければセキヤに殉じていたか、とっくに都を離れてどこかの村で薬師となっていただろう。
セキヤの遺したものを、よりよき方向に導く。それが加煎の願いである。国内が安定してきたいま、ただひとつの心配は朱家の奥義のことだった。
「『うちは』は木の葉じゃトップクラスの忍だ。セキヤの跡取りにゃ、不足はないと思うがな」
「それぐらい、わかっています。セキヤが『うちは』の者たちに執心していたことも……。けれど、よりによって、なぜあの者なのですか。『うちは』ならほかにもいるというのに」
なるほど。
醍醐は納得した。加煎は「うちは」の双子の弟ではなく、兄に神器を託したかったのだ。
うちは風。穏やかで思慮深く、周囲を慮る目を持つ青年。それでいて、いざというときには冷徹なまでの決断力があり、忍としても、あるいは執政者としても卓越した能力がある。
木の葉の国と森の国の今後のためにも、それが最善だっただろう。なにしろ風は、森の国との縁深い人物である。醍醐の養女である青藍は風の子供をふたりも産んでいて、いままた三人目を懐妊中であったから。
もっとも、そんな姻戚関係だけで奥義を譲るわけにはいかない。いまは亡き五代目は、血縁ではなく別の基準で後継者を選んだ。よりセキヤに近い「魂」の持ち主を。
おそらく、そんなことは加煎にもわかっているはずだ。ただ、認めたくないだけで。
「だからといって、いまさらあれを返してくれって言うわけにもいかねえだろうが」
「あたりまえです。だいたい、あれが木の葉へ渡ったことさえ公になっていないのに」
公式には、朱家の「三種の神器」はいまだ行方不明のままなのだ。セキヤがそれを公にすることを許さなかったから。
『せっかく平和になったんだからさー。わざわざ、いくさのネタを提供することはないでしょ』
長きに渡って幻とされてきた忍術の奥義。それを求めて、諸国が争いを起こすことは十分にありうる。
『だから、これはオレたちと三代目だけのヒミツってことで』
その三代目火影もまもなく崩御し、奥義はセキヤだけのものとなった。その後。セキヤは自らの死期を察して、それをふたたび木の葉の里へ戻したのだ。
「セキヤが託して、五代目が見極めたんだ。それに……」
たぶん、五代目はそれを得る者に試練を課していたはずだ。だからこそ、五代目が没したいまになって、奥義を受け継ぐ者が現れた。それが、「雷神」。
「あれは……いつ来るのです」
呼称が変わっている。よほど気に入らぬらしい。醍醐は大きく息をついた。
「青藍が木の葉に入ったからな。その経過報告もかねて、来週あたり文が来るはずだが」
生まれてくる赤子に写輪眼が出ることを心配した青藍は、先月、木の葉の里に移住した。いまは風とともに、郊外の屋敷に住んでいるらしい。
「来週、ですか」
一重の目が、冷たい光を放つ。
いかほどの者か、しかと確かめる。加煎の念がひりひりと伝わってくる。醍醐はあらためて、この男の底知れぬ恐ろしさを実感した。
「……ま、飲むか」
「いただきます」
視線を動かすこともせず、杯を差し出す。
いくら飲ませても酔うことはあるまいが、とにかく、場を繋がねば。この状態で余所へ行かれたら、王城の政務に支障をきたしかねない。支障ぐらいならまだいいが、まかりまちがって死人が出るようなことになったら最悪だ。
ここは、自分が擁壁になるしかあるまい。
悲壮なまでの決心をして、醍醐は酒を注いだ。
翌週。
木の葉の里からの文遣いが、王城に到着した。「雷神」と「狐」の来訪に文官たちは一様に緊張したようだったが、そののち、彼らは森の国と木の葉の国を繋ぐ親善使節として、長きに渡って両国を往復することとなる。
セキヤの遺した魂が、その掛け橋となって。
(了)
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