目を開けると、藍色と深紅色の双眸が見えた。 こんなに近くで見るのは、はじめてだ。銀の髪がさらさらとゆれている。 この男は、こんな顔だっただろうか。 ぼんやりと、そんなことを考える。そして、ややあって、それを知るはずもないことに気づく。この男は常に、口布と斜めにした額当てで顔の半分以上を隠しているのだから。 見慣れぬ、しかし、引き込まれるような端正な顔。それがさらに、近づいてくる。 イルカはそのときになって、やっと自分の置かれている状況に気づいた。 宿り木 〜魔の食欲上忍シリーズ4〜 by つう 「カ……」 なんとか、声をしぼり出す。 「カカシ先生、なにしてるんですか」 イルカの体の上に、カカシがいた。厳密に言えば、イルカはカカシに組み敷かれていた。 「何って……いいことですよ」 悪びれもせずに、言う。人の夜着をはぎとって、足を持ち上げておきながら。 両ひざが、二の腕の近くにまで来ている。いままで気がつかなかった自分を猛烈に反省しつつ、イルカはカカシをにらんだ。が、その視線は完璧に無視された。 下肢のあいだに、異様な感覚が走る。カカシの長い指が深い部分に入り込んだのだ。 「これの、どこが……いいことですか」 「よくないですか?」 カカシは首をかしげた。 「ここで、いいはずなんですが」 ぐっと、一点に力を込める。イルカの体が、ぶるっと震えた。 「あんた……そんなことは、よそでやってください」 「心外だなあ。こんなこと、余所でしたことないですよ」 それで、どうして、こんなふうにできるんだ。 「ちゃんと、よくしてあげます」 腰を固定して、さらに奥を探る。 「だから、おとなしくしててくださいね」 カカシはにっこりと笑った。波が引くように、するりと指が抜ける。 直後に、ふたたび激しい圧迫感。 どうして、こんな目に遭わなくてはいけないんだ。この男に、なにか悪いことでもしたのだろうか。 否。礼を言われることはあっても、こんな仕打ちを受けるいわれはない。 イルカはいままでの経緯を振り返り、そう結論づけた。 忍の中で、はたけカカシの名を知らぬ者はいない。 近隣諸国にまで勇名を馳せているこの男が、じつは日常生活不適応者だとイルカが知ったのは、まったくの偶然だった。 「あの……」 しばらく逡巡した挙げ句、イルカはカカシに声をかけた。 「なんですか?」 もぐもぐと咀嚼しながら、カカシは顔を上げた。 アカデミーの食堂。窓際の席で、彼は深皿に盛られた料理を口に運んでいた。 「そういう食べ方は、もったいないと思うんですが」 カカシは、定食のメニューを全部、ひとつの皿に入れていた。ご飯も味噌汁も煮魚も酢の物も漬物も。これでは、どう見ても残飯だ。第一、こんなことをして旨いわけがない。 「もったいないって……どういうことですか」 不思議そうに、銀髪の上忍は訊いた。 「ですから、その……それでは食べ物の味がわからないでしょう」 「わからなきゃいけないんですか?」 真顔で訊ねられ、イルカは答えに窮した。 もしかして、味覚障害なのだろうか。それなら、まだ納得できる。なにを食べても砂のように感じるから、とりあえず摂取することだけを念頭に置いているのかもしれない。 もっとも、仮にそうだとしても、この食べ方ではかえって回復を遅らせるだけだ。 「いけなくはないですが、せっかくの料理ですから、わかるに越したことはないかと思って」 カカシは首をかしげた。 「それって、なんか、無駄じゃないですか」 「はあ?」 「ひとつひとつ味を確認しながら食べてたら、時間の無駄でしょ」 そういう問題だろうか。 「食事なんて、一日に必要な熱量と栄養素が摂取できればいいわけですから」 表情ひとつ変えずに、カカシは言った。 あきれるより前に、イルカは悲しくなった。この男は、いままでどんな暮らしをしてきたのだろうか。 それまでカカシに対して、個人的な興味はなかった。「コピー忍者」と称される、里一番の手練れ。はるか雲の上の人物だと思っていた。事務局で顔を合わすことはあっても、まともに口をきいたこともない。 それが、なぜ今日は自分から話しかける気になったのか。明確な理由はわからない。 「なんか、変なこと言いましたか、俺」 カカシは藍色の目で、イルカを見上げた。 「だったら、すみません」 自分がなにを言ったのかすら、わからないカカシ。イルカは小さく笑った。 「いえ、いいんです。おれの方こそ、余計なことを言いました」 イルカは頭を下げた。カカシはじっとこちらを見つめている。 「お邪魔しました」 そう言って踵を返そうとしたとき、カカシがイルカの腕を取った。 「イルカ先生は、どんな食べ物が好きなんですか」 「え……」 「今度、晩飯、食いにいきませんか。おごりますよ」 唐突な誘い。イルカは、無意識のうちに頷いていた。 数日後、二人は繁華街の居酒屋にいた。 「すみませんねえ。こんなとこしか、知らないんですよ」 カカシは言った。 その店は、地方の地酒から他国の密造酒までを手広く扱っている酒屋が経営しているそうで、じつは当局から目をつけられているのだが、そこは蛇の道は蛇。あの手この手で捜査官を懐柔して、いまだに営業を続けている。 カカシは肴をつまみながら、輸入が認められていないはずの遠洋の島の酒をあおった。 やたらとペースが速い。アルコール度数はかなり高いのだが、本人はまるで水を飲むような勢いでグラスを空にしている。 「あの……」 また、イルカは口をはさんでしまった。 「なんですか?」 「そういう飲み方は、体に悪いですよ」 「え……酒って、飲み方に作法なんかあったんですか」 「いえ、そういうわけじゃなくて……」 「茶の湯なら、わかりますけど」 「はあ?」 今度は、イルカが目を点にする番だった。 この男が茶道に通じているとは、とても思えない。 疑問に思って訊いてみると、なんでもカカシが贔屓にしている花街の妓女が、茶の作法を手取り足取り教えてくれたそうだ。 「里を背負って立つおかたが、茶のひとつも知らぬでは困りますわなあ」 妓女は、ころころと笑いながらそう言ったらしい。 「べつに、茶の作法なんかどうでもよかったんですけどね」 たいして興味もなさそうに、カカシは言う。要するに、その作法を覚えれば、妓女の機嫌がよくなったのだろう。 イルカとて、男である。花街で遊ぶこともある。そんなとき、相方に機嫌よく接してもらうのはうれしい。 「イルカ先生は、下戸なんですか?」 「いや、そういうわけでは……」 イルカは苦笑した。 「でも、あまり強い方ではないですね」 「それを下戸って言うんですよ」 カカシは指摘した。自分は、相変わらず水を飲むようにしてグラスを空けている。 ザルだな。 イルカは思った。 酒に強い体質なのは、わかった。しかし、まともな食事もせずにアルコールばかり摂取するのは、どう考えてもまずい。 里にとっても、大事な人材だ。このまま酒に溺れていいはずはない。 イルカはカカシに、ある提案をした。居酒屋から出た直後である。 「カカシ先生」 「はい?」 「今度は、おれにおごらせてください」 カカシは目を丸くした。 「いいんですか?」 「もちろんです。来週、うちに来ませんか」 「……イルカ先生の家にですか?」 「ええ。たいしたものはありませんが」 「行きます」 即答だった。 「絶対ですよ。いつですか」 なんだか、せわしないことになってしまった。 「ええと……すみません。来週の勤務日程がまだわからないので」 「じゃ、わかり次第、教えてくださいね」 がっしりと手を握り、カカシは言った。イルカは反射的に頷いた。 これが、まずかったのかもしれない。 次の週の半ば、カカシはイルカの家を訪れた。イルカは自分が子供のときに作ってもらった献立を、苦心して用意した。イルカとて、べつに料理が得意なわけではない。自分が食べる分だけは作るが、とくに他人をもてなすために尽力をするほどではない。 しかし、カカシのために作るものは違った。自分がかつて、母に作ってもらったものを、できるだけ踏襲しようと努力した。 それはかなり難しかったが、食堂でカカシが取っていた食事を見てしまったいまは、せめて、あのころの自分と同じものを食べてもらいたかった。 「なんですか、これは」 カカシは、目を丸くした。 なんだと言われても、困る。ほうれん草のごまあえと、昆布の佃煮と、鳥肉のからあげと、ワカメの味噌汁。ほかに冷や奴や蛸の酢の物を用意したが、この男は、こういうものをまったく知らないのだろうか。 目にしたことはあっても、とりあえず摂取するために、全部いっしょくたにして口に運んでいたのかもしれない。 「すみません」 一応、あやまっておく。 「おれ、あんまり凝ったことはできないもんで。とりあえず、召し上がってみてくれませんか」 カカシは、じっと卓袱台とイルカを見比べた。コップの中は麦茶である。 「酒は、ないんですか」 「ひと通り、味見していただいたら、出します」 イルカは宣言した。 「はあ、では、ええと……いただきます」 ぎこちない言葉。 カカシは、味噌汁をすすった。 「熱いです」 「味噌汁は、熱いのが普通なんです」 次に、酢の物。 「すっぱいですよ」 「酢の物なんですから、あたりまえです」 そして、佃煮。 「しおからいです」 「そういうもんです」 ひとつひとつ、解説する。 カカシは、まるで実験するかのように箸を運んだ。 「イルカ先生」 「はい?」 「複雑なんですね。食べ物って」 カカシは、しみじみと言った。 ゆっくりと箸を進めながら、それぞれの味を堪能している。イルカはほっとした。とりあえず、わかってもらえたようだ。 すべての料理がカカシの胃に納まった。カカシは箸を置いて、 「ご馳走さまでした。……これで、いいんですよね」 ちらりと、イルカを窺う。 そんなことも、知らなかったのか。食事の前後の挨拶さえ。 イルカは苦笑した。 「いいですよ。お粗末さまでした」 「ぜんぜん、粗末じゃないですよ」 真剣に、カカシは言う。もう言い返すこともできない。 「お気に召したようで、よかったです」 心から、そう言った。建て前の挨拶など、この男に通用しそうになかったから。 「よかったら、また来てくださいね」 返す返す、これがまずかったと思う。 この男に、社交辞令や言葉のあやを期待した自分が甘かったのだ、と。 「こんばんはー」 二日と空けず、カカシはやってきた。 「今日のおかずは何ですか?」 開口一番、そう訊く。 惣菜屋で買ってきた煮物や揚げ物だと、あからさまに不機嫌になって「俺、イルカ先生のごはんがいいです」と言う。 まったく、付け上がって……。 そう思いつつも、この男はいま、幼少期を取り戻しているのだと考えて、イルカはできる限りのことをした。 「美味しいですねえ」 そのひとことが、心に響く。美味しいと思ってもらえるのなら、多少の苦労は致し方ない。 どうして自分が、こんな乳母のような、あるいは養母のようなことをしなくてはいけないのかと思うが、それが決して不愉快ではないのだから、まあ、よしとしよう。 カカシは日毎に、まっとうに成長しているように見えた。 それなのに。 いま、カカシは自分を夜具に押しつけて蹂躙している。 体の自由が効かないのは、この男が持ってきた梅酒のせいだ。 今日、カカシは件の居酒屋から仕入れたと言って、南方産の梅で作ったという梅酒を持ってきた。大きな瓶に入ったそれは、黄金に輝いていて、じつにいい匂いがした。 「新物なんですよ、これ。だから、あっさりしてて、飲みやすいと思うんですけど」 たしかに香りはいいし、口当たりも軽い。 「イルカ先生、昔、梅酒を盗み飲みして叱られたって言ってたでしょ。いまだったら、だれも叱りませんよ」 そうだった。子供のころ、母が作っていた梅酒をこっそり飲んで、ぶったおれたことがある。あとでさんざん、怒られた。 その話を、カカシは覚えていたのか。 イルカは勧められるまま、グラスを重ねた。懐かしい、甘い味がした。 「ご馳走さまでしたー」 カカシがいつものように、卓袱台の前でごろりと横になった。 「お腹がいっぱいになると、幸せですねえ」 うとうとしながら、そんなことを言う。 たしかに、そうだ。イルカも幸せだった。あたたかく、懐かしい気持ちに満たされて。 イルカは押し入れから蒲団を出して、カカシに掛けた。くうくうと、寝息が聞こえる。 後片づけをしなくては。 卓袱台の上を拭いて、洗い物を流しに運ぶ。カカシが飲み残した梅酒が、グラスに半分ばかりあった。 捨てるのはもったいない。イルカは、くいっと飲み干した。 やはり旨いな。 そんなことを考えながら、食器を洗う。水きり籠に食器を納めたころには、すでに夜も更けていた。 急速に、酔いが回ってきたようだった。イルカは奥の八畳に自分の蒲団を敷いて、倒れるようにして眠りについた。 そして。 この状況である。 「ここ、駄目ですか」 耳元で、カカシが訊く。 馬鹿野郎。いいから、困ってるんだ。 イルカは唇を噛み締めた。アルコールの勢いでこんなことになったなんて、悔しいじゃないか。 自分は、男だ。そしてこいつも、男なんだ。 それを認めるのは、絶対に嫌だった。拒まなくては。いまさらどうなるものでもないにせよ、このまま流されてなるものか。 「……いや……です」 必死に言う。しかし、どうやらそれは、反対の意味に受け取られてしまったらしい。 「うれしいです」 この、くそったれ!! イルカは目を閉じた。 早く終わってくれ。一刻も、早く。 夜が明けたら、忘れるから。なにがなんでも、忘れてみせる。 呪文のように、イルカはその言葉を唱えた。 忘れる。忘れる。忘れてやるとも! やたらと執拗な行為のあと、朦朧とした意識の向こうで「ご馳走さまでした」という、のほほんとした声を聞いたような気がした。 少なくとも、おれは残飯じゃなかったわけか……。 われながら、情けない感想だ。 自暴自棄になりながらも、イルカはとりあえず、睡魔に身を委ねたのだった。 (THE END) |