鶴は舞い降りた〜魔の食欲上忍シリーズ16〜  BYつう






 独り暮しを始めるときに、金物屋のおやじさんが「安物買いの銭失いはしなさんな」と言って勧めてくれたのが、その鍋だった。
 見た目はなんの変哲もない、ただのアルミ鍋。ほかの品と比べて、どこといって違いがあるようには思えない。最初はボラれているのかと思ったが、「まあ、試しにひとつだけでも」という主人の熱意に押されて、手頃な大きさの両手鍋を買った。
 あれから、十年近く。いまだにその鍋は、健在だ。
 あとになって、片手鍋や煮物用の深鍋など何種類かを買い足したが、どれも使い勝手がよく、重宝している。
 イルカは今日も、それらの鍋をコンロに乗せて調理に励んでいた。子持ちカレイの煮付けと具だくさんの味噌汁。ごはんはしっかり、五合炊いた。
 これで、どんぶり三杯おかわりされても大丈夫。イルカは台所で最終チェックをした。
 まだ少し時間があるから、もう一品作ろうか。思いついて、冷蔵庫を覗く。
 昨日、麦とろ飯を作ったときの長芋が、半分ばかり残っていた。向かいのおばさんお手製の梅干しもある。イルカは長芋を拍子切りにして、梅酢和えを作り始めた。
 それにしても、ずいぶん手慣れてきたと思う。
 もともと家事は嫌いではなかったし、料理もそれなりにできる方だったが、あの男と関わってから、さらに磨きがかかったような気がする。
 はたけカカシ。写輪眼を持つ銀髪の上忍。里を代表する手練れである。
 ひょんなことからカカシに食事を作るようになり、文字通り「夜襲」を受けて体の関係ができてから、もうずいぶんたつ。
「イルカ先生のごはんは、本当においしいですねえ」
 茶碗に頬ずりせんばかりの調子で、カカシは言う。
「それに、イルカ先生も」
 食欲と、もうひとつの欲求とをイコールで結んでいるらしいこの男は、食事のあとで必ずといっていいほど、イルカを褥に誘う。最初のうちはそれに抵抗もあったが、いまでは半ば諦めの境地である。
 まっすぐに、正直に求めてくる心。それはまるで子供のようだ。願えば必ず叶うと信じている、小さな子供。
 カカシの生い立ちを思えば、叶った願いなどないに等しいだろうに。いや、もしかしたら、「願う」という意識すら持てなかったかもしれない。
 ものごころついたころから忍として戦いの中にあり、十代のほとんどを暗部で過ごした。そんなカカシが求めるものならば、与えてもいいと思ってしまった。
 つくづく、因果である。
 梅酢和えを鉢に盛っているときに、玄関の戸を叩く音がした。
「こんばんはー」
 いつもの声。扉を開けると、銀髪の上忍が口布を下げながら入ってきた。
「今日のおかずはなんですか?」
 これまた、いつもの台詞。イルカは長芋にかつおぶしを散らしながら、メニューの説明をした。
「あーっ、俺、カレイって干物しか食べたことないんですよ。うれしいなあ。イルカ先生と一緒にいると、めずらしいものがたくさん食べられますねえ」
 瞳に星でも飛ばしそうな勢いで、カカシは平鍋を覗き込んだ。
 カレイの煮付けというポピュラーな料理さえも、この男には感動を与えるらしい。イルカは頬をゆるませた。
「火を入れますから、ちょっと見ていてください。おれ、味噌汁に入れるネギを切りますんで」
「はーい。まかせてくださいっ」
 このところ、とみに「お手伝い」に燃えている上忍は、満面に笑みを浮かべてそう言った。
 もっとも、手伝いとは名ばかりで、結局は二度手間三度手間になるのが常だった。食器を運べば落として割る。大根おろしを作らせれば指の皮まですりおろす。蒲団を敷かせれば押し入れの襖を壊す。およそ役に立った試しはない。
 それでもカカシの「手伝いたい」という欲求は留まるところを知らず、毎回毎回、なにかしら「お手伝い」のネタを探しては手を出してくるのだ。
 できるだけ、被害の少ないものを。
 イルカはいつも、そう考えていた。そう考えて、鍋の見張りをしてもらったのだが。
 なにやら、へんな臭いがする……。
 ネギを刻む手を止めて、イルカは横を見遣った。
 平鍋から、煙。
「カ……カカシ先生! なにやってんですかっ!」
 イルカは慌てて、コンロの火を止めた。
「え? どうかしました?」
 カカシは藍色の目をぱちくりしている。
「どうかって、あんた……なんで、勝手に強火にするんですかっ」
「だって、早く食べたかったんですもの」
「早くって……」
「火を強くしたら、早くあったまるでしょ」
 イルカはがっくりと肩を落とした。平鍋は、すっかり焦げついている。
「……カカシ先生。煮魚っていうのは、みりんと醤油を使うんです。だから、強火にしたらすぐに煮詰まってしまうんですよ」
「はあ、そうですか。で、それがなにか」
「だから! 煮詰まって焦げついた煮魚なんて、食えたもんじゃないですよっ」
「えーっ、これ、もう食べられないんですかー?」
 途端に、カカシは泣きそうな顔になった。
「そんなー。俺、カレイの煮付けが食べたいです」
 自分で焦がしておいて、なにを言うか。
 イルカは憮然としつつも、鍋にひっついたカレイを引き剥がした。身が崩れるのは仕方がない。皿に乗せて、ずい、と差し出す。
「どうぞ」
「食べられるんですか?」
「一部炭化してますが、食しても不都合はありません」
 淡々と、言い渡す。カカシは皿を手にして、卓袱台の前にすわった。
「……いただきます」
 消え入りそうな声。そこまで落ち込むぐらいなら、余計なことをしなければいいのに。
「煮魚って、苦いんですね」
 ひとくち食べて、カカシが言った。
「焦げてるからです」
「次は、焦げてないのがいいです」
 だれのせいで焦がしたと思ってるんだ。そう言いたいのをぐっとこらえる。
「わかりました」
 低い声で答え、とある事実に気付く。
 味が、わかるようになったんだな。
 妙なところで感心した。なにしろ、出会ったころのカカシは、定食を全部ひとつの器に入れて食べるような味覚音痴だったから。
 それにしても。
 イルカは真っ黒になった鍋を見下ろして、ため息をついた。
 件の金物屋で買った平鍋。煮魚や菜ものを茹でるときには重宝していたのだが、こんなに焦げついては、もう使えない。近いうちに新しいのを買いに行かなくては。イルカはざっと汚れを落として、鍋をごみ袋に入れた。
「捨てちゃうんですか?」
 どんぶりを片手に、カカシが訊いた。
「ええ、まあ……」
「どうして」
「どうしてって、あんた……」
 味はわかるようになっても、自分の行状は把握していないらしい。
「あんたが鍋底を真っ黒にしてしまったからですっ」
 ごみ袋から無惨に焦げた鍋を取り出し、カカシの目の前に突き出す。
「おれが独り暮しを始めてから、ひとつずつ買い揃えてきた鶴丸印の鍋なんですよっ。軽くて丈夫で、使い勝手もよかったのに……」
 かたん、と、どんぶりを置く音。
 しまった。言い過ぎた。
 カカシがゆっくりと立ち上がる。
 まずい。まだ飯を食ってないのに。
 イルカはこれから起こるだろうことを予想して、身を固くした。カカシが近づいてくる。形のいい手がのびてきた。焦げついた鍋を取り、流し台に置く。
「イルカ先生」
 腰に手が回る。
 今日はここで、か。イルカは自分の不用意な言葉を悔いつつ、思った。これ以上、刺激しないようにしよう。いつぞやのように擦傷を負うのは嫌だ。
 覚悟を決めて、体を預けようとしたとき。
「ツルマル印って、なんですか?」
 目の前二十センチほどの距離で、訊かれた。
「は?」
 一瞬、頭が真っ白になる。
「ですから、ツルマル印ってなんのことかなー、と……」
 んなこと、腰を密着させて訊くんじゃねえっ!!
 思わず叫びそうになった。が、それを言ってしまっては、今度こそアウトだ。
「鍋の……銘柄ですよ」
 ひきつりそうになりながらも、なんとか答える。
「商店街の金物屋で、いちばんの売れ筋なんです。丈夫で長持ちするっていうんで」
「その鍋を、俺、台無しにしちゃったんですね」
 カカシはしゅんとして、手をはなした。そっと体を引いて踵を返す。
「帰ります」
「え?」
 イルカは耳を疑った。帰るって? 夕飯も途中だというのに。
「ツルマル印、ですね」
「はあ」
「弁償します」
「え、いや、その……」
 なにも弁償してくれとは言っていない。ただ、自分がしたことを認識してほしいだけで。
「あした、また来ます」
 カカシは三和土に降りた。履物をつっかけて、振り向く。
「じゃ、おやすみなさい」
 軽く会釈して、銀髪の上忍は部屋を出ていった。
 卓袱台には、食べ残しの魚と汁ものとどんぶり飯。イルカは大きなため息をついた。
 五合も炊いたのに。
 味噌汁も大鍋いっぱいあるのに。
 さらには、鉢に山盛りの梅酢和え。
「どうすんだよ、これ」
 イルカは脱力して、卓袱台の前にすわりこんだ。





 翌日。
 カカシは大きな背負い子を担いでイルカの家にやってきた。
「イルカせんせい〜。ツルマル印の鍋ですよーっ」
 近隣諸国にその名を知られた「コピー忍者」のカカシは、その日、金物屋にあった鶴丸印の鍋をひとつ残らず買い占めたという。
 軽くて、丈夫で、長持ちで。
 その後、イルカが件の金物屋に立ち寄ることはなかった。



   (THE END)


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