甘い関係
〜魔の食欲上忍シリーズ19〜  BY つう








 風邪をひいた。
 久しぶりに、三十九度を超える熱。イルカは今後の仕事の予定を鑑みて、欠勤することを決めた。今日一日なら事務が滞ることはあるまい。アカデミーの授業にも穴を開けずに済む。
 とりあえず、茶漬けを食べて薬を飲んだ。口の中がざらざらとしていて、食べ物の味も薬の味もわかりにくい。
 本当に久しぶりだな。
 蒲団の中で、つらつらとイルカは考えた。教師になってからもなる前も、怪我はたくさんしたが、風邪で寝込んだことはほとんどない。もっとも、三十八度ぐらいの熱なら休まずに仕事に出ていたが。
 じつのところ、きのうから発熱していたのだ。少しだるかったが、どうしても外せない打ち合わせがあったし、事務の仕事も中途だったので出勤した。一時間ばかり残業をして、帰宅したのは八時ごろ。芋粥を作って食べた直後に寒気が襲ってきて、冬用の蒲団を引っ張り出して床に就いた。
 夜のうちに体温が上がりきったらしい。いまは寒気はおさまり、逆に熱くなってきた。
 このぶんだと、明日には平熱に戻るだろう。今日はおとなしく寝ていよう。
 薬の影響か、またうつらうつらとしてきた。障子ごしに差し込む朝の光を背中に感じつつ、イルカは目を閉じた。





 額に、だれかの手。
 イルカは蒲団を蹴飛ばして体を返した。
「何者!」
 クナイを構えたところで、視界が歪んだ。しまった。立ち暗みだ。イルカはがっくりとひざをついた。
「イルカせんせい〜」
「……え?」
 聞き覚えのある声に顔を上げる。たったいま、イルカが投げつけた蒲団を抱きしめてそこにすわっていたのは、泣きそうな顔をした銀髪の上忍だった。
「よかったー。名前を呼んでも起きないんですもの。もう、俺、どうしようかと思いましたよー」
 起きなかったのか。イルカは少なからず驚いた。いくら高熱を出しているとはいえ、部屋に侵入されたのに気づかなかったとは。
 いや、きっとそれは、カカシだからだろう。カカシはこの部屋の空気に馴染んでいる。自分がカカシに馴染んでいるように。
「それは……ご心配をおかけしました」
 クナイを引いて、言う。息苦しい。背中はぐっしょりと汗で濡れている。
 ぞくりとした。いけない。このままでは、また熱が上がってしまう。
「すみません。ちょっと着替えを……」
「あ、そうですね。俺、手伝います」
 箪笥を開けて、夜着を出す。
「手拭いを持ってきましょうか?」
「いえ、いいです」
 脱いだばかりの夜着でざっと体を拭いて、着替える。さらりとした布の感触が心地よかった。
「敷布も替えた方がいいんじゃないんですか?」
 カカシが言った。イルカはまじまじと、銀髪の男を見つめた。この男が、こんな気遣いをするなんて。
 自分勝手でわがままで、子供のような男だとばかり思っていたのだが。
「あー、やっぱり、湿ってますねえ。ちょっとどいてください。取り替えますから」
 勝手知ったるなんとやら。カカシは押し入れから新しい敷布を出して、夜具に掛けた。なんとも手際がいい。イルカはぼんやりと、カカシの手元を見ていた。
 日常生活に関しては、とことん無器用だったのに。大根おろしもろくにできずに、指まですりおろしていた。それがいまでは……。
「はーい、できました。横になっててくださいね」
 てきぱきと汚れ物を洗濯場に運ぶ。
「まだ熱があるみたいですから、氷枕でも作りましょうか」
 言いながら、冷凍庫を覗き込む。
「あれえ、氷、これだけしかないんですか?」
 そういえば、作るのを忘れていた。ゆうべは寒気がひどかったので、氷枕を用意する気にもならなかったし。
「うーん。じゃ、オーソドックスにいくしかないですねえ」
 がらがらと、氷を取り出す音がした。
 オーソドックスって、なんだ? イルカが床の中で首をかしげていると、手桶と手拭いを持ってカカシが戻ってきた。枕元に桶を置いて、氷水に浸した手拭いをしぼる。冷たい手拭いが、額の上に置かれた。
「どうです? 気持ちいいでしょ」
「……はい」
 なるほど。たしかにオーソドックスだ。
「次は、お粥ですね」
「え?」
「だって、病気のときはお粥でしょ? イルカ先生、俺が風邪ひいたときも作ってくれたじゃないですか」
「それはそうですが……」
 で、だれが作るんだ。まさか……。
「待っててくださーい」
 作るのか。この男が。……作れるのか???
 頭の中でクエスチョンマークが飛び交う。カカシに作らせるぐらいなら、自分が起きて作った方がいいのではないかとも思ったが、せっかくやる気になっているところに水を差すわけにもいかない。
 とはいえ、鍋いっぱいの塩からい粥とか、逆に米入りスープのような薄い粥を食べるのは嫌だ。イルカは上体を起こして、台所に声をかけた。
「カカシ先生」
「はいっ、なんですか?」
「粥は、米一カップに対して水六カップ、塩は小さじ二杯でお願いします。はじめは強火で、沸騰したらふきこぼれないように弱火にしてくださいね」
 料理番組の司会者のように、作り方を説明する。
「わかりましたー」
 にこやかに答えて、カカシは土鍋をコンロに乗せた。米は洗っていないようだったが、この際、細かいことは気にしないでおこう。
 鼻唄まじりに台所に立っているカカシの背中をながめながら、イルカは額の手拭いを替えた。





 そして、小一時間後。
「できました〜」
 枕元に、土鍋にたっぷりの粥が置かれた。れんげと茶碗が差し出され、
「どうぞ。たくさん食べてくださいねっ」
 いつも自分が言っている台詞。まさかカカシの口から聞くことになろうとは思わなかった。
「いただきます」
 神妙に手を合わせる。イルカはれんげで粥をすくって、口に運んだ。
「……」
 ほんのりと、甘い。
 塩と砂糖を間違えたな。イルカは小さくため息をついた。
 でも、まあ、言った通りの分量しか入れていなくてよかった。これなら、なんとか食べられる。
「どうですか? おいしいですか?」
 小犬のような目で、カカシは訊いた。
「ええ」
 イルカは微笑んだ。
「よかったー。じゃ俺も、いただきまーす」
 嬉々として、カカシは自分の茶碗に粥をよそった。ふうふうと冷ましてから、口に運ぶ。しばらく咀嚼して、
「あれ?」
 カカシは首をかしげた。どうやら、自分の間違いに気づいたらしい。途端に泣きそうな顔になった。
「イルカ先生、俺……」
「おいしいですよ」
 粥を食べながら、イルカは言った。
「あんたが作ってくれたんですから」
 分量をきっちり計って、火加減も調節して、ふきこぼれないように鍋の前から離れなかった。あんたは、ちゃんと作った。だから、いい。甘い粥なんて食べるのははじめてだけれど。
 イルカは茶碗を空にして、盆に戻した。
「ごちそうさまでした」
 きちんと、手を合わす。
「イルカせんせい〜」
 いきなり、カカシが抱きついてきた。勢いあまって横に倒れ込む。
「うれしいです。俺……こんなにうれしいことって、はじめてです」
 気恥ずかしくなるような台詞。夜具の上に押し倒された格好で、イルカはその言葉を反芻した。
 まずい。この状態でああいうことになったら、せっかく下がりかけている熱が、また上がるじゃないか。
「あの、カカシ先生。おれ、まだ熱が……」
 ことさら弱々しく、言う。カカシは目の前に左手を持ってきた。印を組んで、口呪を唱える。病封じだ。これは。
 意識が一瞬、遠のく。引き上げられるような感覚のあと、嘘のように体が楽になった。
「もう、大丈夫ですよね」
 にっこりと、カカシが笑った。夜着の胸元に、左手が差し入れられる。
「イルカ先生の愛に応えるために、俺もがんばります」
 肌の上を、長い指がすべっていく。唇が眠っていた体を徐々に目覚めさせる。
 ……がんばる? どうせがんばるなら、粥を作り直してほしかった。
 やはり、この男は思考の方向性がずれている。それ読みきれなかったのが悔しいが、いまさらどうしようもない。
 たぶん、夜には熱がぶり返すだろう。熱が下がっているのは術が効いているあいだだけだから。
 あしたも、欠勤は必至だ。まったく、これじゃおちおち風邪もひいていられない。これからは、ふだんの健康管理に細心の注意を払わねば。



 こうして、うみのイルカの「危険人物取扱マニュアル」に、またひとつ新たな項目が加わった。



  (THE END)


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