世の中には、忘れたくても忘れられず、逃げたくても逃げられないことが多いものだ。
 二十年以上生きていれば、それぐらいのことはわかっている。つらいことも悲しいことも悔しいことも、それはそれで皆、意味のあることで、決して無駄ではない。
 イルカはいままで、そう信じてきたし、実際、そうやってどんなことも乗り越えてきた。両親の死も、忍としての試練も。
 しかし。
 今回だけは、忘れたかった。逃げたかった。できるなら、きのう一日を消去したい。いや、それが無理なら、昨夜の数時間だけでも。






巣箱 〜魔の食欲上忍シリーズ5〜         by つう






 今朝は朝飯を作る元気もなかった。体が重くて、だるい。とくに下肢は神経が一、二本切れたかと思うほど力が入らなかった。
 やっとのことで洗面をすませ、着替える。敷布の一部が明らかに汚れていたが、それを洗っている時間はない。とりあえず部屋の隅に夜具を押しやって、家を出た。
 朝日がことのほか、まぶしい。酔いはすでに覚めていたが、まるで二日酔いのときのように目の奥が熱かった。
 いつもの道をいつものように歩いたつもりだったが、十分も遅刻してしまった。同僚に今日の業務内容を聞き、席につく。
 腰がどんよりと痛い。我慢できないほどではないが、終業時間までずっとデスクワークかと思うと、げんなりした。
 だいたい、あの男が調子に乗って、あんなに長いあいだ……するからだ。
 イルカは心の中で毒突いた。
 カカシは、イルカがその行為に関して肯定のことばを言うまで、体を離さなかった。何度も何度も、耳元で確認する。「駄目ですか」と。
 意地でも言うものかと思ったが、結局は根負けしてしまった。早くその状況から逃れたかったし、あまりのことにまともな思考ができなくなっていたから。
 いいです、と口にしたのは、もう明け方近かったのではないだろうか。いくら一年でいちばん夜明けが早い時期とはいえ、かなりの時間、カカシに組み敷かれていたことになる。
 だいたい、どうしてカカシはあんなことをしたんだろう。
 衆道の趣味があるわけではなさそうだ。馴染みの妓女もいるらしいし、余所でゆうべのような真似をしたことはないとも言っていた。
 それなのに、なぜ。
 イルカには想像がつかなかった。かといって、訊くのも嫌だ。
 カカシのことである。また、とんでもない理由を言いそうで、恐い。
 なにしろカカシは、イルカの体を離したあと「ご馳走さま」と言ったのだ。食欲と性欲をいっしょくたにされていたら、最悪だ。
 遁走したい誘惑と戦いつつ、イルカは事務局の業務をこなした。





 仕事の帰り道、イルカは惣菜屋と魚屋に寄って、夕飯の副菜を買った。今日はなにも作る気がしない。飯を炊くのも面倒で、握り飯も買った。
 空はまだ、明るかった。東天に薄く白い月が浮かんでいる。川縁の道を、イルカはぶらぶらと歩いた。
「あ、おかえりなさいー」
 家の前で、あっけらかんとした声がした。
 ……だれか、嘘だと言ってくれ。
 イルカは買い物袋を握り締め、その場に固まった。アカデミー内でこの男の姿を見なかったので、里の外に出ているのかとほっとしていたのに。
「今日のおかずはなんですか?」
 銀髪の上忍は、買い物袋をのぞきこんだ。
「あれえ、なんですか、これ。俺、イルカ先生が作ったものが食べたいです」
 あまりにも、いつも通りの成り行きに、イルカはがっくりと肩を落とした。
「あんたねえ……」
 上忍だからと言って、遠慮などしてはいられない。
「自分がなにをしたのか、わかってますか」
「え、なにって……」
 ぽかんとした顔。
「あんなことをしておいて、よくまた、ここに来られますね」
「ああ、きのうのことですか」
 カカシは、うんうんと頷いた。
「喜んでいただけましたか」
 だれが喜んだって?
 イルカは咄嗟に、カカシの頬を叩いていた。
「帰ってください!」
 カカシは頬を押さえることもせず、隻眼を見開いている。深い藍色の瞳。なぜ自分が叩かれたのかすら、わかっていないような。
 イルカはカカシの横を通って、玄関に入った。ぴしゃりと扉を閉めて、鍵をかける。忍なら、これぐらいの鍵は難なく開けられるだろうが、自分の意志を示すためだ。
 おれは、あんたのモノじゃない。都合よく使われるのは、ご免だ。
 イルカは買ってきた食料を卓袱台に放り出し、敷布や夜着の洗濯を始めた。こんなものをそのままにして、飯が食えるか。
 すっかり固まった汚れはなかなか落ちなかったが、イルカは洗濯板を取り出して、手の皮がむけるほどの勢いでごしごしとこすった。
 作業すること、約一時間。
 ようやく脱水も済んで干す段階になって、イルカははたと手を止めた。
 外にはまだ、あの男がいるかもしれない。再度、顔を合わせるのは気まずいが、敷布やカバーなどは家の中に干すわけにもいかないし……。
 イルカは意を決して、外に出た。
 玄関の前には、だれもいなかった。ほっとして、歩を進める。川に面した裏庭に回ると、月明かりが水面をゆらゆらと照らしていた。
 夏は夜、か。
 古典の一文を、ふと思い出す。洗濯籠を持ったまま、しばらく川風に身をさらした。
 さて、干そう。そう思いつつ物干しの方を見て、イルカは思わず籠を落としそうになった。
「な……なにしてるんです」
 声がひっくり返ったのは、致し方ない。物干しの向こう側、窓の下には、銀髪の上忍がひざを抱えてすわっていた。
「待ってたんです」
「はあ?」
「あなたが、出てくるのを」
「待ってたって……」
 たしかに、表に居座られるよりはいいが。
「許してください」
 ぼそりと、カカシは言った。イルカは目を丸くした。
 あやまっている。ということは、一応、罪悪感は感じているのだろうか。
 そう考えて、イルカが譲歩しようと思ったとき。
「今度は、もっと上手くやります」
 どさっ、と、洗濯籠が下に落ちた。
「あー、イルカ先生、どうしたんですか? 土、ついちゃいますよ」
 カカシはすばやく立ち上がって、洗濯物を拾った。
「はい、どうぞ」
 にっこりと、籠を差し出す。
 許してもらえたと思っているのだろうか。この男は。
 イルカは混乱した。たしかに、一般の常識などまったく通用しない男だ。それでいままで、やってこられたのだから始末が悪い。
 ふつふつとわきおこる怒りを意志の力で抑えて、イルカは洗濯籠を受け取った。敷布もシーツも、土で汚れている。
 洗い直しは、あしたにしよう。それよりも、いまは、こいつだ。
 イルカはカカシを見据えた。
「カカシ先生、おれは、あんたを許せません」
「え……」
「きのう、あんたがしたことは犯罪です」
 言いすぎかもしれないが、これぐらいでないとわかるまい。
「犯罪?」
「そうです」
「罪名は、何です」
 真面目な顔で、カカシは訊いた。イルカは視線を外さずに、
「強制猥褻、もしくは暴行罪です」
「強制などしませんでしたし、暴力もふるっていませんよ」
 へ理屈だ。
「そりゃ、多少、体に影響があったとは思いますが」
 そこまでわかっていて、どうして肝心なことは抜けてるんだ。
「意識のない相手に手を出すなんて、おれが女だったら強姦罪ですよ」
「イルカ先生は男でしょ。なんの問題もありませんね」
 そこが問題なんだ。そこが。
 のれんに腕押し、糠に釘、馬の耳に念仏。あと、なにかぴったりくる格言はなかったかな。
「じゃ、伺いますけど……どうして、あんなことしたんです」
 鬼門かもしれない。が、ここで訊いておかなくては。
「あんなことって、つまり、なんで俺が、あなたを抱いたのかってことですか」
 ダイレクトに言わなくていい。せっかく、ぼかしてるのに。
「……そうです」
「そんなの、決まってるじゃないですか。好きなんです」
 あっさりと、カカシは言った。イルカはおそるおそる、
「男と寝るのが……ですか?」
「はあ?」
 カカシは素っ頓狂な声を出した。
「いえ、その……ですから、あんたは男と同衾する趣味があるのかと……」
「ないですよ。心外だなあ。きのうも言ったでしょ」
 たしかに、そんなことは言っていたが。
「俺はね、あなたが好きなんですよ」
「え……」
 一瞬、耳がストライキを起こした。
 すき。……好き? だれが、だれを?
「好きだから、抱きました。それが犯罪ですか」
 カカシは不思議そうな顔をしている。イルカは、自分の許容範囲を大幅に超えた会話の内容に、めまいを感じていた。
 好きだからって、その性向のない者が男を抱くか、ふつう。
 そこまで考えて、イルカはふと気づいた。
 そうか。「普通」じゃないんだ。
 この男は、なにからなにまで普通じゃない。だから、あんなことをした。
 急に、可笑しくなった。ばかばかしい。そんなことは、とっくにわかっていたはずなのに。
「イルカ先生? どうしたんです」
 くすくすと笑い出したイルカの顔を、カカシが心配そうに覗いた。
「いえ、べつに……。ちょっと、自分が情けなくなっただけです」
 実感だった。
 カカシが美味しそうにものを食べる顔が好きだった。満腹になって、幸せそうに横になる姿も。それを見ている自分も、なんとなく幸福になれそうで。
 でも、結局は自己満足だったのかもしれない。自分がなにか特別なことでもしているかのような、うすっぺらい優越感。
「今日は……帰ってください。なにも作る気になれないんで」
 率直に、イルカは言った。
「じゃ、あしたなら、いいんですか?」
 ぱっと、表情が明るくなる。まったく、この男は……。
「あしたは夜勤なんで、無理です」
「それじゃ、あさっては」
 なんだか、必死になっている。イルカは微笑んだ。
 わかったよ。わかりました。付き合いますって。
「いいですよ。でも……」
「なんですか?」
「酒はなしです」
「えー、そんなの、つまらないです」
「酒がほしいのなら、どこか余所へ行ってください」
 これだけは、譲れない。カカシはしばらく考えていたが、やがてこくりと頷いた。
「あなたに嫌われたくないですから」
「そう思うんだったら、寝込みを襲うような真似はしないでくださいね」
「じゃ、起きてたらいいんですね」
 揚げ足を取られた。ぐっと奥歯を噛む。
 そういう問題ではないのだが、まあ、今日はこれでよしとしよう。
「おやすみなさーい」
 上機嫌で、カカシが帰っていく。
 イルカは汚れた洗濯物を物干しの横に置いたまま、家にもどった。もう、なにもしたくない。さっさと買ってきたものを食べて、寝よう。
 明日からまた、あの精神年齢五歳の上忍と対峙しなければならない。油断していたら、いつこの身まで喰われるかわからない。
 技術的に思い切りハイレベルだったので、うっかりしたらこのまま流されてしまうかもしれない。それだけは嫌だ。
 イルカは惣菜の袋を破り、鉢に盛った。握り飯を皿に並べ、冷茶をコップに注ぐ。
「いただきます!」
 ばちっと手を合わせ、イルカは猛然と箸を取った。


END


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