盂蘭盆会〜魔の食欲上忍シリーズ18〜  BY つう








 静かだ。
 余人のいない事務局の片隅で麦茶を飲みながら、うみのイルカは思った。実際は、耳鳴りがしそうなほどの蝉の大合唱が、窓の外から聞こえていたのだが。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という有名な句を思い出す。
 ふだんはごったがえしている事務局も、盆休みのあいだは閑散としている。一応、当番はあるのだが、さしせまった仕事もないし、イルカにとっては有給休暇のようなものだった。
 今日は精霊流し。夕刻から川にはたくさんの精霊舟が浮かぶだろう。
 最近は盆の供物を乗せて流すのは減ってきて、灯籠だけのものも多い。薄闇の中、ゆらゆらと灯し火が川面を流れていくのは、なんとも幻想的な風景だ。
 少し早いが、もう帰ろうか。
 適当に日誌を書いて、局長の机に置く。戸締まりをして事務局を出たのは、終業時刻よりも半時ばかり前だった。
 外は、言うまでもなくまだ明るい。夕飯の惣菜を買おうと、商店街をぶらぶらと歩いた。さて、今夜はなににしようか。
 カカシは遠方の単独任務で里を離れている。あの男がいないときぐらい、家事の手を抜きたい。そこはかとなく、亭主が出張中の女房の心境である。
 情けないよな。「亭主元気で留守がいい」を実感するなんて。
 顔見知りの店で煮物とコロッケとお浸しを買う。飯を炊くのも面倒だったので、握り飯も買った。
 ゆっくり食べて、冷酒でも一杯ひっかけて、精霊流しを見に行くか。
 そんなことを考えながら、イルカは帰路についた。





 静かだ。再度、イルカは思った。
 むろん、外では精霊流しに出かける人々や、夜店目当てにはしゃいでいる子供たちの声がうるさいほどに響いていたが。
 イルカにしてみれば、そういった喧騒を感じられるということこそが、静寂の証しだった。自分自身が喧騒と狂乱の真っ只中にいるときは、余所の賑わいなど感じる余裕はない。
 喧騒と狂乱。
 あの男の存在は、まさにそれだ。ささやかな日常を、子供のようなわがままで見事にぶち壊してくれるのだから。
 もっとも、それをつい許してしまうのは自分。嫌いになれないのだから、仕方ない。つくづく因果ではあるが。
 冷酒をぐいのみに注ぎ、口に運ぶ。
 うまいよな。このところ、ひとりでいるときしか飲まないから、とくに染みる。飲み干して、次を注ぐ。それが何度か繰り返された。ほどよい酔いが、イルカを包む。これぐらいにしておくか。
 箸を取って、煮物に手をのばそうとしたとき。
「イルカせんせい〜」
 一瞬、空耳かと思った。まさかね。あの男の帰還は、まだ先のはず。
 ガタガタガタッ!
 玄関の戸が音をたてて揺れる。……現実だ。酔いが瞬時に飛ぶ。
「早く開けてくださいよー」
 追い討ちをかけるように、声がした。なにやってんだ。玄関を壊す気かっ!
 イルカは慌てて立ち上がった。なにしろ相手は、社会人としてはとことん規格外なやつだ。襖の枠をぽっきりと折った前歴もあることだし。
「ちょっと待ってくださいっ」
 大声で叫び、イルカはドアを開けた。
「イルカ先生っ、ただいま帰還しました〜」
 例によって、オーバーアクションで抱きついてくる。イルカはかろうじてそれを受けとめた。ここで倒れ込んで、そのまま事を始められたらサイアクだ。
「……ご無事で、なによりです」
 かろうじて理性を保ち、定型のあいさつを返す。
「はいっ。俺、がんばりましたー。三日も早く、帰ってきたんですよ。イルカ先生、会いたかったです〜」
 はいはい。わかったよ。わかったから、いい加減に放してほしい。
 どうしたもんかと、視線を下にやる。と、そこには、やたらと大きな荷物が転がっていた。
「あの、カカシ先生、それ……」
 大黒天が担いでいるような、巨大な布袋。
「え? ああ、これですか」
 カカシは、布袋をひょいと持ち上げた。
「イルカ先生に、お土産です」
「それは、どうも……え、これって……」
 袋の中を見て、イルカは絶句した。
「たくさんあるでしょー。イルカ先生に喜んでもらおうと思って、一生懸命、集めたんですよー」
 一生懸命って、あんた……。
 イルカは大きなため息をついた。
「ほら、俺、予定より早く帰ってきたでしょ。イルカ先生、ごはんの用意、たいへんなんじゃないかなーって思って」
 予定が変わったから今日は遠慮しようなんていう気は、さらさらないらしい。まあ、この男ならそれも当然だが。
「だから、拾ってきたんですか。……これを」
「はい〜」
 百歩ゆずって、食材を持ってきてくれたのはよしとしよう。正直なところ、これだけの野菜やくだものや団子などがあれば、まがりなりにもこの男を満腹にさせるぐらいの料理はできるだろう。しかし。
 これを受け取るわけにはいかない。なにしろこれは……。
「カカシ先生」
「はいっ」
 ほめてもらえると思っている子供の顔。ほんの少し心が痛むが、ここはきちっと言わねばなるまい。
「これは、いただけません」
「えっ、どうしてですか?」
 途端に、悲しそうな顔になる。
「これは、仏さまへのお供えものですから」
「へ?」
「川で、拾ったんでしょ」
「ええ。たーっくさん流れてきたから、ラッキーって思って」
 なんでも、漁師の使う投網を投げて、文字通り一網打尽にしたらしい。イルカはふたたび、大きく息をついた。昔話の桃じゃないんだから。
「今日は、精霊流しの日なんですよ」
「ショウロウ? ……なんですか、それ」
 やっぱり知らなかったか。
 いまさらながら、この男の常識の欠如を痛感する。月見も年越しも正月も彼岸も、なにも知らなかった男。イルカは懇切丁寧に説明した。
 盆の意味。その間の行事。精霊舟のこと。
「……というわけで、これは仏さまへの供物なので、余所のものを勝手に取っちゃ駄目です」
 しゅんとして、カカシは下を向いた。イルカは袋を手にして、
「じゃ、お願いします」
「え、お願いって……」
「これを川に戻してきてください。そのあいだに、おれは商店街に行ってきますから」
「商店街?」
 カカシは不思議そうにこちらを見ている。
「ご推察の通り、うちにはいま、あんまり食料がないんですよ。買い出しに行かないと」
 そう言うと、カカシはぱっと明るい顔になった。
「わっかりましたー!」
 イルカの手から、布袋をひったくるようにして取る。
「俺、ちゃんと返してきますからっ」
 言うなり、玄関を飛び出す。
 あっけにとられているイルカを残して、カカシの姿はまたたくまに川の上流へと消えていった。
 とりあえず、話は通じたらしい。イルカは脱力感を覚えつつ、ついさっき買ってきたばかりの惣菜や握り飯を冷蔵庫に仕舞った。
 これはあしたの朝にしよう。賞味期限は今夜の零時だが、温めなおせば大丈夫だろう。
 米粒ひとつでも、無駄にはできない。つくづく貧乏性だと思うが、これも持って生まれた性分なので仕方ない。
 さて。
 心の中で握りこぶしをして、気分を切り替える。
 遠方任務を終えて帰ってきたあの男に、腹いっぱいになるまで食わせてやろう。あまり長く待たせると、その後のあれこれが厄介だ。調理時間が短くて、ボリュームのあるものにしなくては。
 頭の中でメニューを組み立てつつ、イルカはふたたび商店街へと向かった。



  (THE END)

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