その時、湖面が泡立った。 『敵か!』 クナイを構える。泡立ちはみるみるうちに渦潮へと変わった。 全神経を湖へと向ける。殺気が感じられなかったのが不思議だが、確かに、そこに誰かが潜んでいる! ゴボッ、ゴボゴボッ、ゴボボボボボボッ! 『来る!』 イルカは奥歯を噛み締めた。 愛の水中花〜お稽古カカシシリーズその5〜 by真也 『怒ってるかな・・・』 鉛を飲み込んだように重い胃を抱えながら、イルカは湖を眺めた。もう夕暮れ。里につくのは真夜中になるだろう。どう考えても、間に合わない。いや、それを狙っての行動だった。 今日は週一回のお稽古の日。はたけカカシ上忍の発表会の日なのだ。 『だって・・・・あそこを追い出されたらオレ、行くところねぇよ』 中忍の薄給では、住めるところは決まっている。イルカの住んでいる長屋は、それなりにいい物件だった。彼にとっては十分過ぎるほど。 『でも、相手は上忍だもんな』 もう何度目かわからない溜め息をつく。両肩は下がりっぱなしだ。 『・・・・・手打ちとか言われたら、どうしよう〜』 自分の考えが自分を追い詰める。胃がキュッと痛んだ。 実は彼、うみのイルカは逃げて来たのだ。 銀髪の上忍、悪気が無いのは分かっている。高みを目指して、日々努力する姿も頭が下がる。 でも、だ。 現実には問題なのだ。あの、お稽古発表会は。 『今後一切の迷惑行為を禁じる』家主は言った。 最後通告だった。もう、後はない。 かといって、上忍宅を訪れるのも気が退けた。というか、別の意味で恐い。 あの上忍が墨で八畳間を黒く染めた日から、イルカは考えつづけた。 どう言ったらいいかわからない。 迷惑だ。なんてとても言えない。 お稽古内容を『見たい』と言ったのは自分。それを、今になって掌を返すなんて。 『じゃ、いきますよ〜』 楽しげな上忍の顔が目に浮かぶ。彼はひたむきに努力するのだ。自分にそれを披露するために。 上手い言葉が見つからなくて頭を抱えていた時、急な任務が受付所に入った。内容は雨の国への文遣いである。 『はいっ、オレ、いきます〜!』 気がついた時には志願していた。 それで、これである。 『一応、任務だし。許してくれないかな』 かなり楽観的な希望を持っている。ま、そこが中忍の中忍たる所以なのだが。 「うん。相手も人間なんだし。誠意を尽くして謝ろう。そしたら許してくれるさ。なんせ任務なんだもんな」 独り納得して、イルカは立ち上がった。出来るだけ急ごう。一生懸命急いだけど間に合わなかった。そういう事情だと相手も酷くは言えまい。 その時、湖面が泡立った。 『敵か!』 クナイを構える。泡立ちはみるみるうちに渦潮へと変わった。 全神経を湖へと向ける。殺気が感じられなかったのが不思議だが、確かに、そこに誰かが潜んでいる! ゴボッ、ゴボゴボッ、ゴボボボボボボッ! 『来る!』 イルカは奥歯を噛み締めた。 絶句と言うのに、ふさわしい光景だった。 それはまさしく人の足。30度ほどの角度で開脚し、湖の上に浮かんでいる。するするとつま先から太ももの上まで、水面上に出て来た。 『いっ、犬○家の一族っ』 動揺のあまり、昔懐かしい怪奇小説を思い出す。でも、肌がスベスベだな。 慌てているわりには妙に細かいところまで見ているイルカだった。 確かにその足は均整が取れていた。色白ですらりとしている。程よく筋肉のついた足。 『女の足じゃ、ないよな』 ぼんやりと思っているうちに、それはぴたりと両ひざを揃えた。くるり、くるりと回転しながら沈んでゆく。 ついに、つま先が湖に消えた。 『な・・・何だったんだ?!』と、イルカが思った時、再びざばりと水音。 ぼたりと、イルカの手からクナイが落ちた。 「イルカ先生〜!」 「わぁぁぁぁーーー!」 湖から姿を現したのは、銀髪の上忍であった。 「あっ、あんたっ、どどどしてっ」 「嫌ですねぇ。イルカ先生どもってますよ。そんなによかったですか〜」 「だっ、誰も!あんたこそ!」 「ま、落ち着いてくださいよ。時間はたっぷりあるんですから」 「なんですって!カカシ先生!任務は・・・」 「俺ですか?休暇中でーす!」 銀髪から水を滴らせ、にっこりと上忍は笑った。 「イルカ先生も帰るところでしょ?今日は水中でやる奴だったから、丁度よかったです〜。どうでしたか?」 どうって?あの、水中から足だす面妖な踊りがなんだって? 言葉がない。 イルカは金魚のようにぱくぱくと口を開けた。 「ウフフ。そうですよね。今日のは、俺のためにあるような芸ですもの」 「何言ってんですか!!」 血管がキレそうになりながら、中忍は叫んだ。もはや理解不能。もう逃げたい。でも何処へ。今日は逃げてたはずなのにっ。 「え?見てくださいよ。ほら」 カカシがひょいと片足をあげる。イルカの目の前に、上忍の脛。 「・・・・・ない」 中忍は凝視した。ない。いや、あるのかもしれないけど、殆ど目立たない。すね毛が。 「いいでしょ」 「なんですか、これ」 「俺、色素薄いですから。すね毛も銀髪〜」 「嫌です!」 なんだか泣きたい。イルカは思った。同じ男なのに。神様って意地悪。 くるりと上忍に背を向けた。ふつふつと怒りが湧いてくる。先程の申し訳ない気持ちは何処へやら。というか、自分が逃げても気にもしてなかったのだ。この上忍は。 ああ、人生空回り。 「イルカ先生〜」 「・・・・はい」 「綺麗でしたか?」 「何がです」 「だってほら、水中花みたいかなーと」 「誰が!」 「ええ?俺ですよ〜。水ん中で愛を舞う。題して『愛の水・中・花』!」 「馬鹿野郎!!!!」 中忍の怒号に湖面が揺れる。大爆発だった。 休火山って何も無いように見えても、いつか爆発するのよ。だから、休火山。 うみのイルカはまさしくそれだった。噴火状態。周りはもう見えない。 「あんたねぇ!いつもいつも人の事情考えずにっ!お稽古だかなんだか知らないけど、はっきりいって迷惑なんだよ!」 言った。 言ってしまった。 上忍相手に暴言だ。 イルカはギュッと目を瞑った。 瞬殺かな。 ぼんやりと考える。仕方ない。出した言葉は戻せない。言葉って大切。 が、しかし。 覚悟していたクナイも火遁も雷撃も、彼を襲うことはなかった。おそるおそる、目を開く。 上忍は立っていた。それまでと変わらぬ状態で。 さすがに、忍服に戻ってはいたが。 無表情な顔。だまって覆面を引き上げる。額当てがなされて、右目だけがのこされた。 「あのっ、カカシ先生」 「言えるじゃない」 謝ろうとして、抑揚のない声に遮られた。さあっと、血の気が退く。 「どこまで続くかと思ったけどね。ここらで限界だったかな」 「・・・・・・・」 纏う気が違う。無機質な、刺すようなそれ。右目が皮肉げに歪んだ。 「アンタさ。お人好しもいい加減にしなくちゃね。でもまあ、結構楽しんだよ。じゃ」 言葉と同時に、黒い影が消える。音もなく行ってしまった。 頭が回らない。 限界って? 楽しんだって? あれが、あの上忍なのか? 『ええっ!聞いてくださるんですかっ!』 上忍の笑顔が甦る。 『哀しいですねぇ。イルカ先生には、わかってもらえると思ったんですが・・・』 寂しそうな横顔。さらりと揺れた銀髪。微かに見えた紅い瞳。 『イルカ先生、俺、頑張りますねっ』 頭の中に、カカシの声が木霊する。 イルカは呆然と立ち尽くした。 end |