古の音 〜お稽古カカシシリーズその1〜 by真也







「ふうっ」
 うみのイルカは入れたてのほうじ茶をすすった。100g298円の茶葉だったが、五臓六腑にしみわたる。やはり、温かい飲み物はいい。ちょっと、幸せになった気がした。その時。


 べーん、べーん、べーん、べべーーーん。


 どこからともなく、琵琶の音。
『はっ。これはもしやっ』
 イルカの顔が蒼く染まる。緊張した面持ちで、辺りを見回した。

 ぎぃーーおおーーん、しょおーーじゃの、かねえーーーの、こえっ。べん。

「ぎゃあぁぁぁぁっ!」
 彼は耳を押さえた。聴かなくてもわかる。あの声。
 あれは、奴だ。あの上忍が来た。やっぱり、今日もやってきたのだ。
 慌てて奥の八畳間へ駆け込んだ。押し入れから布団を引き出し、敷いて早々ともぐりこむ。 頭からすっぽり、布団をかぶった。
 今日は寝よう。オレは休み。これは夢だ。夢じゃないかな。夢であってくれ!
 このまま何事もなく、オレは朝を迎えたい。
 気分は半泣き。彼は両目を固く瞑った。もう何も見ない。何も聞かない。
 神さま、仏さま、八百万の神さまっ!
 オレに安全な眠りをくださいっ!


 がたん。


 イルカが切実というよりは悲壮な祈りを捧げていたとき、枕元近くの畳が裏返った。床板がするすると左右に開く。一畳分の空洞が開いた。思わずイルカは覗きこむ。それは、その中から、聞こえてきた。


 べーん、べーん、べん、べん、べん、べん、べん、べん、べべん。


「ひぃっ!」,
 彼は声にならない声をあげた。床下がせり上がる。何故だ。なんでオレん家に、歌舞伎舞台みたいな仕掛けがあるんだ。
「こんばんわ〜」
「わーーーーっ!」
 
 そこには、琵琶法師の格好をした銀髪の上忍が立っていた。
「イルカせんせい〜」
 響く低音。ビブラートまで効いている。そこはかとなく怖い。
「あんたっ、なんでそんな格好してんですかー!」
「そんな格好って、琵琶法師ですよ」
「どうして琵琶なんですっ」
「どうしてって、雅でしょ?」
「なんで床が・・・・まさかあんたっ!」
「即日仕上げ。いい建具屋さんでした」
「勝手にひとん家、改造しないでくださいっ」
「やだなぁ、そんなにはしゃいで。大人げないですよ」
「怒ってんです!」
「まあまあ。それよりイルカ先生。俺、今日のこの日の為に、血の滲む様な特訓をしてきました」
 上忍がずずいと迫り出す。べべんと琵琶を掻き鳴らした。中忍はもはや金縛りだ。
「聞いてください!俺の愛のセレナーデ!」
「わーーーっ!耳を切られるーーー」
「ひどいですねぇ。耳なし○一みたいに。さっ、いきますよ」
「嫌ーー」
 中忍の叫びが虚しく響いた。






 社交辞令がいけなかった。うみのイルカはしみじみ思った。何気ない一言。それが、この中忍を奈落の底につき落としたのだ。
 最初のきっかけ。それは、春先。桜のころ。
「イルカ先生、こんにちは」
 アカデミーから受付所へいく途中で、彼は呼び止められた。自分のような中忍にまで、丁寧に頭を下げるその挨拶。好感をもっていたのは事実だ。だって、まだ知らなかったから。
「カカシ先生、こんにちは。今日はお早いですねぇ」
「ええ。ちょっとね。今日は用事があるもんで」
 はたけカカシ上忍は、唯一表に出されている右目を細めて笑った。
「そうですか」
「はい。もう、今からドキドキしてるんですよ〜。上手く吹けるかなって」
「はあ」
 カカシは自分の両頬を両手で囲んで首を振った。大の男が。おおよそかわいらしくない。
 仮にも上忍。その彼がドキドキするもの。なんだろう。
「トチッちゃったら、恥ずかしいですよね。今回、任務であんまり練習出来なかったからなぁ」
「あの、失礼ですが。吹くって、笛か何かですか」
 イルカは訊いた。律義な彼らしい。きちんと確かめたくなった。この上忍のドキドキするものを。
「尺八です。これって応用で、口寄せの術にもつかえるんですよ〜」
「そうなんですか。カカシ先生、凄いですねぇ。オレなんて無趣味で」
 尺八の音色で口寄せ。風流といえば風流かも。あまり実践向きとはいえないが。しかし、さすが上忍。やることが違うなぁ。
 どうも天然としか言えないイルカだった。
「そんなことないですよっ」
 上忍が乗り出した。中忍の目の前でニッコリと笑う。目尻に笑いジワ。
「何事も練習しだいです。イルカ先生も一緒にしませんか?楽しいですよ」
「いや、オレ、中忍ですし。経済的にも習い事なんて、出来る余裕ないですし」
「ええっ、残念だなぁ。あ、俺、イルカ先生の分の月謝、もってもいいですよ」
 目が本気だ。冗談。そんなこと出来るはずもない。相手は上忍なのだ。
「いいえっ、滅相もないっ・・・・・・そうだ、カカシ先生。せっかく習ってらっしゃるのなら、オレにもそのうち、一曲聴かせて頂きたいですね」
「ええっ!聞いて下さるんですかっ?」
 食い入るように上忍が迫って来た。イルカは驚く。口からでた社交辞令。もとより、これで体よく去るつもりだった。
「え?ええ。オレで宜しければ。カカシ先生のご都合のいい時に」
「今です!」
「へ?」
「今から、いいですか?いや、この格好じゃなぁ。わかりました!今から大至急家に帰って、準備してきますねっ」
「ちょっ、カカシ先生!準備って・・・」
「夕刻、お宅にリサイタルにお伺いしますっ!ではっ」
「あっ」
 消えた。上忍が消えた。言葉を継ぐヒマもなかった。
 というか、どうしてオレん家を知ってるんだ?
 イルカは呆然とした。でも、まだこの時は結構、物事をかるく考えていた。



 これが、さらにいけなかった。



「イルカ先生!お待たせしましたっ」
 予告通り、上忍は夕刻やってきた。虚無僧姿で。
「あの・・。カカシ先生?どうしてその格好を」
 イルカの素朴な疑問に。カカシは満面の笑みを浮かべる。
「いやぁ。我ながら凝り性だと思うんですけどね。ほら、物事、形から入るって方法もありますでしょ?」
 つまり、そういうわけだ。
「格好に恥ずかしくないリサイタルにしますね」
 にっこりと微笑む。額当てと覆面を取った。いつもの蒼い瞳と左目は髪で隠れている。端正な顔だちが現われた。
 綺麗だな。
 うっかり見とれたのがいけなかった。ここで止めるべきだった。
 それから二時間、イルカの住む長屋に尺八の調べが響き渡った。決して下手じゃない。どちらかというと上手い部類だ。でも、休みがない。演奏が終らないから、トイレに立つヒマもない。
 嘘だろ?嘘だよな。
 顔を引き攣らせながら、二時間彼は耐えた。
「イルカ先生っ、いかがでしたか?」
 二時間連続のリサイタルを終えて、上忍は訊いた。頬を高揚させて。子供みたいだ。犬だったら、尻尾を振っているはず。
「え?ええ。素敵でしたよ。・・・・・・トイレに行くヒマも、なかったくらい」
 本当は足が痺れたのだ。正座してたから。
 いきなり、がしりと両肩が掴まれた。がくがくと揺さぶられる。
「ありがとうございますっ!俺、そんな事言って頂いたの初めてでっ!俺もイルカ先生に喜んで頂いて嬉しいです!」
「いっ、いいえ。こちらこそ」
 がくがく、揺れながら中忍は言った。
「では、アンコールをっ」
 上忍が尺八を構える。イルカは慌ててしがみついた。まだやるのか?これ以上は近所迷惑だ。
「ま、待って下さいっ」
「え?なんですか〜?」
「カカシ先生っ、今日はもう遅いですし。日を改めて・・・」
「そうですね!」
 上忍の顔がぱあっと輝く。嬉しそうな、生き生きとした顔。
「俺は今日一日だと思ってたんですが、この次も聴いてくださるんですねっ!イルカ先生っ、ありがとうございます!」
 踏んだ。今、確かに地雷踏んだ。
 中忍は言葉がなかった。
「ではっ、来週もお楽しみに〜」
 煙を残して上忍が消える。後に残されたイルカは呆然とするしかなかった。
 来週?来週ってなんだ?
 テレビ番組じゃあるまいし。
 ということは毎週、やってくるのか?
 あの上忍が。


 知らなきゃ、よかった。
 中忍は頭を抱え、そのまま二時間ほど座り続けた。正座で痺れた足は、もはや別のもので動かなかった。
 この日よりイルカは、毎週この上忍の習い事を鑑賞することになる。



 今日の標語:「社交辞令 通じなければ 意味はなし」



end



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