『狂える椿』
byつう
最終章
火影からの使者が龍尾の砦を訪れた日の午後。カカシは独立反対派への牽制のため、単身、北部の町へ出かけていった。
火影からなにか指示があったのだろうか。使者の用向きについては、カカシはなにも言わなかったが。
イルカはその間、龍尾の砦で治療に専念するよう命じられ、それを承諾した。こんな体では、随身していっても邪魔になるだけだ。カカシが戻るまでに、少しは役に立つようになっておきたい。
煉の処方した薬を飲みつつ、体力の回復に努める。そんな日々が五日ばかり続いた。
森の国の独立反対派は、このところ表立った動きはしていなかった。
「『写輪眼のカカシ』が来ていると、知れ渡っていますからねえ」
夕餉を持ってきた煉が、いかにも可笑しそうに言った。
「すねに傷持つ方々は、自分が消されるんじゃないかと戦々恐々としているわけで」
反対派のほとんどは、雲の国出身の公卿である。中には忍やもののふ(武士)もいたが、五大国にその名を轟かせている「写輪眼のカカシ」と真っ向からやり合おうという気概のある者はいないようだった。
「はたけ殿には、せいぜいにらみを利かせていただいて、そのあと木の葉からおいしいエサを送れば、当分は安泰です」
飴とムチ。いや、ムチと飴か。
煉とともに夕餉をとりながら、イルカは考えた。見事に連携が取れている。忍としての技量だけでなく、外交手腕もたいしたものだ。森羅も、もちろんカカシも。
「それにしても、よかったですね」
「は?」
「はたけ殿の試験、合格したようで。じつは、どうなることかと気をもんでいたんですよ」
「それは……おそれいります」
イルカは苦笑した。皆にはお見通しだったわけだ。自分が中途半端なままで、ここに来たことが。
「ご迷惑をおかけしました」
「いいえ。そんな、お気になさらず。これで私どもも、木の葉とお近づきになれたわけですし」
懐に入れた者には、全幅の信頼を置く。それが森羅の一族だ。
かつて龍央の砦でひと月ちかくを過ごしたときは、こんな穏やかな気分ではなかった。まさに孤軍奮闘。五大国さえ一目置いている森羅の者たちに侮られてはならぬと、ぎりぎりまで神経を張りつめていた。
『生き急いではならぬ』
そう言って、肩を叩いてくれた忍がいた。
『人の一生は定められている。ことさら急いで行くことはない』
あのころの自分には、その意味がわからなかった。いつ果てるともしれぬ命。それをどう使おうと、自分の勝手ではないか。
死ねるのなら、いつ死んでもかまわない。あのころの自分は、そう思っていたから。
あの忍は、いまどうしているだろう。父ぐらいの年だった。語り口も、どことなく似ていて。
「あーらら、もう晩飯、終わっちゃった?」
扉を開ける音とともに、聞き慣れた声がした。
「ああ、はたけ殿。ずいぶん早かったですね」
汁ものの椀を卓に戻し、煉は顔を上げた。
「幹が悔しがりますよ、きっと」
どうやら、また賭けをしていたらしい。
「そんなの、俺の知ったこっちゃないよー」
カカシは煉の横に来た。
「あ、鳥肉と芋の煮物だ。俺、これ大好きなんだよ」
「知ってます」
くすくすと笑って、煉は席を立った。
「では、私はこれで」
「へ、もう行くの」
「馬に蹴られたくはありませんから」
冗談めかして言って、煉は房を出ていった。
かちり。扉が閉じられる。足音がだんだんと遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。その直後。
「ただいま戻りました」
ひっそりと、カカシは言った。するりとイルカの肩に手を回す。きつく抱きしめて、大きく息を吐いた。
「ご無事で、なによりです」
イルカも、カカシの背に手をやった。忍服が少し埃っぽいが、血の匂いはしない。どうやら、うまく反対派を抑え込んだようだ。
「あんたも。……もう大丈夫ですね」
「はい」
捨てたから。いままでの自分を。
これからは、あなたに手を引いてもらわなくても歩いていける。ちゃんと歩いて、自分であなたの手を掴む。決して見失ったりしない。どこまでも追いかけて、今日もあしたもあさっても、あなたの側にいる。
唇が重なった。思いをこめ、丹念に繋ぐ。
「カカシ先生」
ほんの少し、唇をずらして訊いてみた。
「なんです?」
「夕餉は、どうします」
「んー。そうだねえ」
顔をはなして、にっこりと笑う。
「あんたを、もらうよ」
そう告げて、カカシはイルカを抱き上げた。
皮膚の表層から、中へ。
少しずつカカシがしみ込んでゆく。触れる場所のすべてが、それを待ち望んでいた。
あんなにも渇望していたはずなのに、このゆるやかな流れはなんだろう。いま、自分は漂っている。この男の腕の中で。
大きな波と、小さな波と、それらが交互に訪れる。でも、波に飲み込まれることはない。心地よい潮騒を聞いているかのように、ただ、ゆらゆらとたゆたう。
交わされる熱。重なる吐息。深い部分を探し当て、ふたりは互いを愛しんだ。
寄り添ったまま、しばらくどちらも言葉を発しなかった。
何か月ぶりだろうか。こうして肌を合わすのは。
貪るように求めるのではなく、触れ合い、確かめ合い、感じ合う。そんな交わりは、ずいぶん長いあいだなかったような気がする。
息の乱れが、徐々に収まっていく。汗ばんだ肌がひんやりとしはじめたころ、イルカはゆっくりと視線を上げた。
ふた色の瞳がじっとこちらを見つめている。藍色と真紅。見慣れているはずなのに、やはり美しい。
見続けていこう。この男を。そして、自分自身を。
生きていこう。たとえ闇が訪れても、明けぬ夜はないのだから。
春の日も、夏の風も、秋の空も、冬の木立ちも。移ろいゆく季節を、間違いなく感じて。
花は散り、実を結ぶ。
そうなりたいと思う。あなたと在って。
(了)