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梅雨寒 byつう
もう、四日も雨が続いている。
今年の梅雨は例年にくらべて気温が低いようだ。アカデミーからの帰り道、イルカは惣菜屋で煮物を買った。
なんとなく、寒気がする。もしかしたら風邪かもしれない。今日は早めに寝るとしよう。先日、カカシにもらった焼酎でも飲んで。
カカシはいま、七班を率いて森の国に行っている。復命は明日あたりか。できれば、あの男が帰るまでには体調を整えておきたい。
少しでも調子の悪そうなところを見せたら、あとがたいへんだ。仕事の最中だろうがなんだろうが、強引に早退させられてしまう。以前ほどではないが、自分とカカシに関する不本意な噂はまだ残っていて、わざわざそれを増幅させる気はない。
たしかに、上忍を平手打ちにしてなんの咎めもなかったのだから、なにかウラがあると思われても仕方がないのだが。
以前の自分なら、そんなことはまるで気にならなかった。人が自分をどう見ようが、自分に関わる者がどういう人間であろうが、一切関心はなかった。が、いまは違う。
自分のことはまだ我慢できるが、カカシがいかにも強権的で傲慢な人間であるかのように言われるのは嫌だ。
「いままで通りでいなよ」
かつての上司は、煙草をふかしながら言った。
「結局は、カカシのやつもその方がやりやすいと思うぜ。おまえさんたちのことは、おまえさんたちだけがわかってりゃいいんだし。な?」
アスマは、カカシと自分の関係を知っている数少ない人物のひとりだ。
「少なくとも、おまえさんの近くにいるやつは、そんなバカな噂なんぞ気にしないと思うがね」
事務局の同僚や、直属の上司。彼らはイルカの能力を高く買っている。とくに前任の事務局長が横領事件を起こして辞職して以後は、事務局はイルカを中心として回っていると言ってもよかった。
「うみの君が頼りですからねえ」
新しく事務局長のポストに就いた特別上忍の政城でさえ、そう言っているのだから。
「なんか、顔色悪くねえか」
先刻、報告書を出しにきたアスマがそう言った。
「カカシがいねえからって、またメシ食ってないんじゃないだろうな」
「まさか」
イルカは苦笑した。
「いくらなんでも、もう大丈夫ですよ」
じつはアスマの指摘通り、ここ二日ばかり食欲は落ちていたが、以前のようなことはない。今朝もちゃんと、茶漬けと佃煮を食べてきた。もっとも昼はきつねうどん一杯を食べきれずに、半分ちかく残してしまったのだが。
「ま、今日はもう上がんな。局長には俺が口利いてやるから」
またぞろ上忍に贔屓されているという噂がたちそうな展開だったが、政城はそれを快く承諾した。
「私の命令で、出先から帰宅したことにしておきますよ」
言いながら、架空の命令書に判を押す。
「じゃ、うみの君。よろしく」
前任の局長とは正反対の性格だ。
こうして、イルカは上忍二人の計らいで、定刻より半時ばかり早く帰宅した。
コンロにやかんを乗せて、火を点ける。
煮物を肴に、焼酎のお湯割りを飲もう。一応、握り飯も買ってきた。食べられそうなら、インスタントの味噌汁でも作ろうか。
そんなことを考えながら、イルカは湯が沸くのを待った。
殺風景だった台所。そこに、いまは何種類かの鍋とやかんと炊飯器が置いてある。卓袱台には保温ポット。水屋には食器が並び、調味料や茶筒なども揃っていた。
それにしても。
イルカはふと、これらの品々がここに運び込まれたときのことを思い出した。
イルカがカカシの心を知って、ともに一夜を過ごした翌日。「ちょっと待っててください」と出かけたカカシが、一刻とたたぬうちに食器や電化製品や鍋の類を買い込んで戻ってきた。中にはカカシの家から持ってきたものもあったらしいが、その数は半端ではなかった。
まさに、引っ越し状態。近所の人たちは、朝っぱらから何事が起こったのかと興味津々で見ていたそうだ。
「先生、ケッコンするって、ほんと?」
向かいの家の子供にそう訊かれたときは、けっこうあせった。
「うーん。俺とイルカ先生とじゃ、婚姻届は受理されませんからねえ」
後日、真面目な顔でカカシが言った。
「まあ、事実婚の通い婚ってことで」
どこまでが本気か、よくわからない男である。
あれから、カカシは何度もここに泊まった。逆に、自分が里のはずれにあるカカシの家を訪ねることも何度かあった。
行き来することが、だんだん自然になっていく。ふたりでいることが、当たり前になってきて。
なんとなく、自分は弱くなったように思う。あの腕を知ってから。
気がつくと、いつも求めている。そこにあの男の体温があることを確認しないと落ち着かない。
自分を呪縛から解き放ってくれた男。自分のために、地獄に堕ちることも厭わなかった男。
『イルカ』
名前を呼ばれる。それに答えて手をのばす。肌に触れる。抱きしめる。
そういう夜を重ねるたびに、自分の弱さを痛感する。このままでいいのか、と。
やかんが、しゅんしゅんと音をたてはじめた。
火を止めて、ポットに湯を移す。焼酎の封を切って、グラスにそそいだ。湯を足して口に運ぶ。鼻孔をくすぐる香り。あたたかな液体がのどを通り過ぎていく。
食べ物も酒も、あの男はあたたかいものが好きだ。いくさばでは、冷えたものしか口にできないから。
「あったかいものを食べると、生きてるんだなあっていう気がするんですよ」
味噌汁をすすりながら、カカシは言った。本当にうれしそうに。
「どうしたんですか」
背後で、声。
「え……」
幻聴かと思った。ずっと、カカシのことを考えていたから。
そろそろと振り向く。そこには、きれいなふた色の瞳。
「なかなかドアを開けてくれないから、勝手に入ってきちゃいましたよ」
ノックの音など、まったく気がつかなかった。なんとも情けない限りだ。
「カカシ……先生」
「はい」
にっこりと笑って、カカシは口布を下げた。
「ただいま戻りました」
「ご無事で……なによりです」
かろうじて、定型のあいさつを返す。
なぜ。復命は明日のはずなのに。
「……どうしたの」
声音が変わる。イルカは顔をそむけた。カカシの長い指が、あごをとらえる。
「俺を見て」
真摯な眼差しで、銀髪の上忍は言った。
「なにか、あった?」
「……なにも」
「ほんとに?」
わずかに、頬が歪んだ。その直後。
「……っ!」
噛みつくような口付け。勢いあまって、畳の上に押し倒される。
口腔内を犯していく舌。素肌を求めて手が衣服の中に進む。覚えのある感覚に、内部が潤んでいく。
あなただ。あなたが、ここにいる。
それだけで、おれはこんなにも崩れてしまう。このままでは、おれは……。
「そんな顔、しないでよ」
唇をはなして、カカシは言った。
「俺、もう、どこにも行けなくなる」
ふたたび、唇が重なる。
熱い体を感じながら、イルカはその言葉を反芻した。
どこにも行けなくなる。
どこにも、行かないで。
ああ。こんな気持ちになってしまったんだ。おれは。
自分たちは忍である。里のために、仲間のために、いつかは命を捧げることになろう。上忍として実戦に出ているカカシはむろんのこと、現場から離れているイルカとて、それは例外ではない。
いつか。自分たちは、違う場所に行かねばならない。
生と死。確実に道をたがえて。
しとしとと、まだ雨は降っている。いましがたまで繋がれていた体は、熱を帯びたまま畳の上に横たわっていた。
「悪かった」
イルカの体を拭き浄めたあと、カカシは言った。
「つい、不安になって」
「不安?」
イルカは顔を上げた。
不安だったのはおれの方だ。この男の腕を求めて、不安定になっていたのは。
「わかってるんだ。俺はあんたを、しあわせになんかできないってことは」
いつ死ぬかわからない。なんの約束もできない。自分は、命を盾にしている忍だから。
「でも、あんたを見ていたい。あんたを抱いていたい。最後まで」
痛いほどに、思いが伝わる。触れあう肌から。見つめる瞳から。
イルカはきつく、カカシを抱きしめた。
最後まで。そう。最後まで、こうしていて。
しあわせになんか、ならなくていい。ずっと不安なままでもいい。あなたを想うことができるのだから。
弱くなったと思った。このままではいけない、と。でも、そうじゃない。
弱くなって、はじめて見えるものもあるのだ。きっと。
「……イルカ?」
カカシが心配そうに名を呼ぶ。イルカは大きく息を吸って、身をはなした。
「カカシ先生、晩飯は?」
「え、ああ、まだですけど」
キツネにつままれたような顔をして、カカシは言った。
「じゃ、蕎麦でも茹でます」
イルカは素早く身繕いをして、台所に立った。
たまには自分が作ろう。うまくいくかどうかは、わからないけれど。
あたたかい酒と、あたたかい蕎麦。煮物も握り飯もあたため直して。
それらのほんわりとした湯気の中に、ふたりの不安が少しずつ溶解していくように思えた。
(了)