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典雅の舞 byつう
それを聞いたとき、イルカは自分の耳を疑った。
「あの、カカシ先生、それはどういう……」
「あれえ、イルカ先生。もう耳が遠くなっちゃったんですかあ?」
カカシは可笑しそうに笑った。
「ですから、今晩、一緒に東雲楼に行きましょうって言ったんですけど」
聞き間違いではなかったようだ。イルカは、キッとカカシをにらみつけた。
「なんの冗談です」
「冗談じゃありませんよー」
だったら、なお悪い。
「失礼します」
アカデミーの食堂で、上忍を罵倒するわけにもいかない。イルカは拳を握り締めて立ち上がった。
「あれえー、まだ半分以上残ってるじゃないですか。もったいないなー」
だれのせいだと思ってるんだ。とてもじゃないが、もう食べる気はしない。
イルカは自分の盆をカウンターに返し、食堂を出た。
東雲楼というのは、木の葉の国の花街でも一、二を争う高級妓楼である。その名の通り花街の東に位置し、遊芸に秀でた妓女を揃えていることで有名な店だった。
カカシはその楼の常連で、楼一の妓女、紫太夫の馴染みであるらしい。イルカは以前、一度だけカカシに連れられて東雲楼の敷居をまたいだことがあった。
中忍の俸給では一生かかっても入れないような店である。イルカはそのとき、一流の妓女とは単に色香を売るだけではなく、生活のすべてを律して精進しているものだと感心した。
「なにしろ、みんな芸に命をかけてますからねえ」
カカシは言った。
「床入りは、おまけみたいなもんです」
遊女の床入りがおまけとは、おそれいる。たしかに、あの折りは床を取らずに引き上げたのだが。
あれからもう、何か月になるだろうか。たしかまだ、カカシと関係を結んでいなかったころだから、少なくとも半年以上はたっている。
いったい、カカシはどういうつもりであんなことを言ったのだろう。妓楼に行きたければ、ひとりで行けばいい。べつに、わざわざ断らなくても。
カカシの真意がわからない。一瞬、婉曲な別れ話かとも思ったが、あの男がそんな回りくどいことはするまい。
「どうしたんだよ、うみの」
隣の席の同僚が、心配そうに声をかけた。
「ケアレスミスが多いぜ」
「ああ、そうだな。すまん」
あわてて、新しい用紙を出して書き直す。
「急ぎじゃなかったら、俺がやろうか」
「いや、大丈夫だ。それより、アカデミーの夏合宿の予定表、今日中に最終稿を上げて印刷しておいてくれ」
「んー。わかった」
手元の書類をファイルに納め、同僚は立ち上がった。
「医療棟に行って、休み中の当番医の確認してくるよ」
「頼む」
とりあえず、余計なことは考えないでおこう。いまは、まだ勤務時間なのだ。
イルカはふたたび、手元に視線を戻した。
夕刻。イルカは定時に事務局を出た。外はまだ明るい。アカデミーの演習場からは、賑やかな声が聞こえている。
夏至から十日。一年中でいちばん日の長い時期だ。
「イルカ先生ー」
うしろから、やたらと機嫌のいい声が聞こえた。
「待ってましたよ。さ、行きましょう」
藍色の隻眼を細めつつ、銀髪の上忍はイルカの肩を抱いた。
「……先程の話なら、断ったはずですが」
さりげなく体をずらし、その手を払う。
「断ってませんよ」
「え?」
「イルカ先生は『失礼します』と言っただけでしょ。あれじゃ、断ったことにはなりませんよ。言葉は、正確に使わないとねー」
イルカはぐっと唇を結んだ。たしかに、そうだった。
それにしても、ふだん自分が口癖のように言っていることをこの男の口から聞かされようとは。
言葉は正確に。アカデミーの子供たちにも、常々そう教えている。
「では、あらためて申し上げますが……」
「あ、ダメですよー。いまから断っても」
「……どうしてです」
「だって、もう予約しちゃいましたもん」
「はあ?」
「東雲楼の奥座敷、ひと晩貸し切り」
にんまりと、カカシは笑った。
「もし断るんなら、イルカ先生にキャンセル料、払ってもらわなくっちゃねー」
冗談じゃない。
居酒屋の予約をキャンセルするのとは、わけが違う。一流どころの妓楼の奥座敷。しかもひと晩貸し切りだと?
ということは、それ相当の準備もしているだろうし、妓女の花代も……。
「んじゃ、行きましょうか」
勝ち誇った顔で、カカシ。
「……お供します」
仕方がない。この際、おとなしくしていよう。この男がなんのために、自分を連れていくのかはわからないけれど。
まだ明るさの残る空を見上げて、イルカはため息をついた。
東雲楼の奥座敷では、以前と同じく、きらびやかな装束に身を包んだ妓女たちが、それぞれに得意な踊りを披露してくれた。
さすがに文月とあって、着物は皆、薄ものになっている。束髪の両側に差すかんざしや笄(こうがい)も、銀の透かし彫りや玻璃など、涼しげな細工を施したものが多かった。
「いつもながら、素晴らしいですねえ」
塗りの杯で酒を飲んでいたカカシが、一同を見渡してそう言った。
「踊りの中に物語があるようで。堪能しましたよ、太夫」
横に座していた紫太夫は、扇で口元を隠して、うっすらと微笑んだ。
「主さまにそう言うていただけて、みなもうれしゅうございましょう。したが、のう」
流し目を送り、小首をかしげる。
「ずいぶんとお見限りでござりましたのう」
「それを言われると、面目次第もないんですが」
「主さまにご披露するため、春の踊りを仕上げておりましたに。立春が過ぎても、桃の節句が来ても、ついには清明節の祭りが終わってもお渡りもなく。妾の心中、お察しくださりませな」
楼一の太夫に、恨み言を言われている。これも馴染みゆえのことだろう。イルカは無言で、その様子を窺った。
「申し訳ないと思っていますよ。お詫びのしるし、といってはなんですが、今日はみなさんにお土産があるんです」
「それはうれしいこと」
太夫はそう言ってから、ふと何事か思い出したように扇を閉じた。
「……みなに、でござりますか」
「ええ」
「それは……ありがとう存じました」
太夫はうしろに控えていた妓女たちに目配せをして、ゆっくりと立ち上がった。素早く膳が引かれる。手前にいた妓女が、舞扇を差し出した。
「されば、『典雅』を」
囃子方の妓女たちが、小さく頷く。太夫は扇を構えて、首座を見据えた。カカシは杯を置いて、太夫の舞いをじっと見つめていた。
ひと晩貸し切り、というのは本当だったらしいが、太夫が一刻ほどで退出したあと、カカシも腰を上げた。もちろん、イルカもそれに従った。
花街の木戸を抜け、里への道をゆっくりと歩く。
同じだな。あのときと。
ぼんやりと、イルカは思った。前のときも、こうだった。カカシは妓女たちの踊りを見ただけで、早々に楼をあとにした。妓楼に行って床入りもしないのかと、ずいぶん不思議に思ったものだったが。
「あーあ。今日は散財しましたよ」
カカシが、のびをしながら言った。それはそうだろう。あれだけの数の妓女を侍らせて、しかも朝まで貸し切ったのだから。
「でも、まあ、太夫の踊りが見られたからよしとしますか」
イルカは眉をひそめた。
「東雲楼は舞踊を売り物にしている店でしょう? だったら……」
「それはそうですけどね」
カカシは苦笑した。
「太夫ともなると、なかなか客の前で踊ってくれないんですよ。ぶっちゃけた話、床入りするよりたいへんで」
そんなものなのだろうか。自分などにはわからないが。
「はじめて見ましたよ、俺。太夫の舞い姿」
しみじみと、言う。
「イルカ先生、運がよかったですねー。どんなお大尽でも、めったに見られないものを見たんですから」
たしかに、太夫の舞いは美しかった。しばらく息をするのも忘れていたほどだ。
「ま、俺が義理を果たしたんで、太夫も情けをかけてくれたのかもしれませんけど」
「義理?」
「最後の登楼には、店を全部買い切らなくてはいけないっていう不文律があるんですよ。まあ、実際にそーゆーことをするやつは少ないでしょうけどね」
それはまた、とてつもない話だ。座敷ひとつだけでなく、楼全部だと? いったい、カカシは今夜、どれくらいの金を使ったのだろう。
そこまで考えて、イルカはあることに気づいた。
「……カカシ先生」
「はい?」
「最後の、登楼って……」
「ああ。そうですよ」
くすりと、カカシは笑った。
「だって、あそこは命の洗濯をしにいくとこですもん。俺にはもう、必要ないですから」
長い指が、イルカのあごを持ち上げる。
「そうでしょ?」
唇が近づく。ほんの少し、触れるだけの口付け。
「あんたが、いるから」
辛いことがあっても、苦しいことがあっても、あんたがいれば。
カカシの心が、胸にしみ込む。
イルカはそっと、カカシの背に手を回した。ふたたび唇が合わさる。今度は、深く。
「イルカ……ごめん」
ひっそりと、カカシが言った。
「え?」
「俺の家まで、飛ぶよ」
それに答える間もなく、耳元で呪文が唱えられた。視界が瞬時に歪む。
宵闇の中に、ふたりの影が溶けて消えた。
(了)