蝉時雨  byつう






 明け放たれた窓から、シュワシュワと蝉の鳴き声が聞こえてくる。
 いつもなら予定表を取りに来たり報告書を提出する者でごった返す事務局も、盆休みのあいだは当番以外はだれもいない。
「『閑さや岩にしみ入る蝉の声』……か」
 イルカは外を見遣って、ふとそう呟いた。
 毎年のことだが、盆と正月は静かである。いや、もちろん町中はそれなりに賑やかで、盆踊りやら花火大会やら、いろいろな行事もあって活気づいているのだが。
 イルカには家族がいない。九尾の一件で両親も親類も亡くなって、文字通り天涯孤独の身の上となった。ここが忍の里でなかったら、十歳そこそこの子供ひとり、まともな生活は送れなかったかもしれない。
 火影の援助でアカデミーを卒業し、忍として働くことができたのは、不幸中の幸いと言うべきだろう。もっとも、あのころのイルカは生きながら死んでいたようなものだった。カカシに出会うまでは。
 ほんの半年ほど前のことなのに、もう何年もたったような気がする。あの男の手をとってから。
「岩じゃなくて、『壁にしみ入る』っていう感じですねえ」
 唐突に、戸口から声がした。
「カカシ先生」
 イルカは目を丸くした。
「どうしたんですか。たしか今日は休暇で……」
「はい。墓参りに行こうと思ってたんですがねえ」
「だったら、どうして」
「せっかく早起きして弁当まで作ったのに」
「はあ?」
 話が見えない。イルカが首をかしげていると、カカシはつかつかと机の横までやってきた。
「あんたこそ、今日は休みだって言ってたでしょ。なのに、どうしてここにいるんですか」
「ああ、それは……」
 同僚が急に見合いをすることになったので、当番を代わったのだ。イルカがそう説明すると、
「そんなこと、俺は聞いてません」
 子供がヘソを曲げたような顔。
「あんたを驚かそうと思って、秘密にしてたのに。こっちが驚かされましたよ。あんたんちに行ったら、もぬけのカラなんですもん。一瞬、夜逃げでもしたのかと……」
「ちょっと待ってください。どうして、おれが夜逃げなんかしなくちゃいけないんです」
「このあいだ、だいぶ無理強いしたから……」
 なんてことを言うのだ。この男は。
 イルカは持っていたファイルでカカシの顔面をはたいた。
「……ったー。なんですか、急に」
「それはこっちの台詞です」
 イルカはカカシをにらみつけた。
「不用意なことを言わないでください」
 いくら盆休みとはいえ、まったくの無人というわけではない。警備の忍や各部の当番は出勤しているのだ。
「いや、だって、あのとき……」
「もういいですから!」
 こんなところで、先夜のあれこれを話題にしてほしくはない。
「……いいんですね?」
 にっこりと、カカシ。
「え?」
「ですから、もう、いいんでしょ」
 謀られた。イルカはぐっと唇を結んだ。これでなにもかも、白紙に戻す気らしい。
「あー、よーかった。俺、気にしてたんですよー。イルカ先生に嫌われちゃったかなーって」
 だったら、いきなりあんなことはしないでほしい。こちらにも、準備というものがあるのだ。心にも、体にも。
出かけましょうか。「仲直りもできたことだし、出かけましょうか」
「……仕事中です」
「盆休みに、そんな急を要する仕事なんてないでしょ」
「でも、規則ですから」
「大丈夫ですってー。ほら」
 カカシはぴらりと、一枚の書類を差し出した。
「なんですか」
「命令書でーす」
 いわく、本日、定時まではたけ上忍の随員を命ず。
 ご丁寧に、事務局長の判まで押してある。
「……どうしたんですか。こんなもの」
 まさか、偽造したのだろうか。
「政城上忍に書いてもらいました〜」
「なっ……」
「賭け将棋をしたときに一筆もらっておいたんですよー。もちろん日付はなしで。いやあ、役に立ってよかったです」
 そういえば、一週間ばかり前に応接間で局長と将棋をしてたっけ。イルカは記憶を辿った。あの日はとくに忙しくもなかったので、つい見逃していたのだが。
「署名も印もホンモノですよー」
「……わかりました。お供します」
 半ば、あきらめの境地である。
「じゃ、善は急げということで。外はいい天気ですよー。木陰で弁当を食べましょうね」
 うきうきと、カカシが言う。ため息をつきつつも、イルカは銀髪の上忍に従った。





 ゆるやかな坂道を、カカシはゆっくりと歩いていく。あたりを眺めながら、景色も空気も十分に味わいながら。
 イルカもそれに合わせて、いつもよりかなりゆっくり歩く。そうすると、ふだんは気づかないものがいろいろと見えてくる。木々の緑もひと色ではない。花の形も様々で、風の匂いもまた微妙に違いがある。
 こんなふうに季節を感じられるようになったのは、目の前を行く男のおかげだ。
 去年の夏のことを、イルカはなにも覚えていない。もちろん、仕事上のことはきっちりと記憶しているが、自分がなにを考えていたのか、なにを思って暮らしていたのか、まったく思い出せないのだ。
 なにも見ず、なにも聞かず、なにも感じず。ただ時間の過ぎるのを待っているだけだったあのころ。心の中になにも残っていないのは、むしろ当然だろう。
「あー、やっぱり、多いですねえ。お供えもの」
 慰霊碑の前まで来て、カカシが楽しそうに笑った。
「酒やくだものは絶対あると思ったんで、持ってこなかったんですよ」
「……お供えものを食べるんですか?」
「ちゃんと手を合わせて、『お下げします』って言えば大丈夫ですよー。先生もそう言ってましたもん」
「先生?」
「そ。俺の先生。言ってませんでしたっけ? 俺、四代目の秘蔵っ子だったんですよー」
 そういえば、父から聞いたことがある。
 幼くして才能を開花してしまった忍。それゆえに道具のように使われているのだと、父は常々心配していた。あのままでは、里のためにも決していい結果をもたらさない、と。
 その幼い忍を、四代目が引き取った。表向きは直属の部下として。
『あの子があんなにいい顔をして笑うようになるなんてね。最初は別人かと思ったよ。あのかたは、忍としてだけでなく、教育者としても素晴らしいかただ』
 その四代目とともに戦うことを誇りとしていた父は、九尾の一件で殉職した。そして、四代目も。
「あなたも……」
「はい?」
「あなたも、あの日、大切な人を失ったんですね」
 そうだ。どうして、そんな簡単なことにいままで気づかなかったんだろう。
 自分だけじゃない。カカシだけでもない。あのとき里にいた者たちの大半は、肉親や友人や恋人を失っているのだ。
 わかっていたはずなのに。里を埋め尽くした屍。いたるところで惨劇は起きていたのだから。だが、自分の中に流れ込んできた怒りと悲しみと、凍りついたような絶望が、ほかのものすべてを拒絶してしまったのだ。
「どうやって、耐えたんですか」
 その苦しみに。
 たったひとりの人を失った恐怖に。
「耐えたり、しませんでしたよ」
 やさしい声で、カカシは言った。
「俺、泣きましたもん。先生が、よかったねって言ってくれたから」
「よかった?」
「ちゃんと泣けるようになってよかったねって。だから、ちゃんと泣きました」
 カカシは慰霊碑を見つめた。
「先生にほめてもらって、うれしかったです」
 泣いて。
 ちゃんと泣いて、ほめてもらって。
 そうやって、カカシは大切な人を昇華させたのか。
 強いと思う。カカシも、そしてそんなカカシを育てた四代目も。
 自分もあのとき、もう少し父を信じていればよかったのかもしれない。
『生きろ』
 愛する者への最後の言葉。
『生きろ』
 望みを繋いだ言葉。
 そう。もう少し、自分を信じていれば。
 自分は愛されているのだと。愛されて育ってきたのだと。そう信じられたなら、心を閉ざすことはなかったかもしれない。
「……イルカ?」
 間近に、ふた色の瞳。
「ごめん。悪いことを言った」
 素のままの声が、耳の奥にしみ入ってくる。
「……いいえ」
 イルカはかぶりを振った。
「おれも、うれしいです」
 あのときは信じられなかったことが、いまは信じられる。
 昔もいまも、自分は愛されている。そして、自分もまた愛している。
「あなたに会えて」
 風の音にかき消されそうなほど、ささやかな声だった。が、それは間違いなく目の前の相手に届いたらしい。
 ふた色の瞳がしあわせそうに細められる。唇が近づいて、そっと重なる。
 いたわりと、愛しみと、思い遣りの接吻。
「……来て、よかったでしょ」
「はい」
「じゃ、ぱーっとやりますか」
 常の口調に戻って、慰霊碑の前に供えてある酒瓶に手をのばす。
「駄目です!」
「は?」
「酒は、駄目です。くだものだけにしてください」
「そんな〜」
「酒盛りするなら、ひとりでどうぞ」
 くるりと踵を返す。
「あーっ、待ってくださいよ。わかりましたって。酒はなしにします。だから、一緒に弁当、食べてくださいよー」
 大きな重箱を手に、カカシが言う。
「さわらの味噌焼きに卵焼きに筑前煮になます。がんばって作ったんですから。おにぎりも三種類あるんですよ」
 早起きしたと言っていただけあって、手のこんだ弁当だ。
「イルカ先生、うめぼしのおにぎり、好きでしょ。たくさん食べてくださいねー」
 すわりこんで、風呂敷を広げる。イルカは苦笑して、腰をおろした。

 遠くから聞こえる蝉時雨。丘を吹き抜ける風は、わずかに秋の気配を漂わせていた。



(了)



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