緑風 byつう
朝の光が障子ごしに差し込む。
イルカは、となりにあったはずの体温がなくなっているのに気づいて、目を開けた。
「……カカシ先生」
手水にでも立ったのだろうか。
ここは里のはずれにあるカカシの家。かつてこのあたりを治めていた庄屋の別宅だったという古い屋敷は、庶民の感覚からすれば桁外れに大きい。寝室として使っている座敷から厠までは、外廊下をぐるりと回っていかねばならない。
そのうち戻ってくるだろう。まだ時間も早いし。
そう思いながら、乱れた夜着の襟を合わす。解かれたままになっていた帯を結び直し、敷布のしわをのばしたところで、ふとイルカは眉をひそめた。
遅い。いくらこの家が広いとはいえ、厠までの往復にそう長くかかるはずもないのに。
イルカは立ち上がって、座敷を出た。箪笥部屋や蒲団部屋、物置き代わりの控えの間、それに、ふだんはほとんど使われていない客間などを次々と見て回る。
いない。カカシがいない。
こんな時間に、どこへ行ったのだろう。急な任務でも入ったのだろうか。それにしても、自分にひとことの断わりもなく出かけるなんて。
そんなはずはない。カカシが、自分を捨てていくなどと……。
そこまで考えて、イルカは頭を振った。なにをばかなことを。捨てるだと? モノじゃあるまいし。
もしかしたら、朝餉の用意をしているのかもしれない。そうだ。きっと、そうだ。
イルカは厨に向かった。
ふたりが同衾するようになって、もう半年ちかくたつ。
当初、イルカはカカシのことを完璧に誤解していて、ただ体だけが目的なのだと思っていた。こんなものでよければ、いくらでもくれてやる。勝手に使って、勝手に楽しめばいい。そんな、投げやりな気持ちで始まった関係だった。
九尾の一件と、五年前の任務の際に負った心身の傷により、生きることも死ぬこともできずにいた自分。そんな自分を生かすために、あの男はあえて泥をかぶった。それを知ったとき。
イルカは、自分で自分に枷を負わせていたのだと気づいた。
「生きる」ことと「死なない」こととは同義ではない。見て、聞いて、感じて。周りのすべてを受け入れて、一歩ずつでも進んでいくこと。それが生きるということなのだ。
自分の名を呼ぶ声を聞いた。自分を求める心を感じた。そして、イルカはカカシの手をとった。
あの日から。
自分はカカシとともにいる。
「だいぶ、まっとうなものが食べられるようになりましたねえ」
昨夜、夕餉の膳を片付けながら、カカシはそう言った。
ちなみに、夕食の献立は焼魚と豆腐の味噌汁で、飯は全粥だった。カカシはまめな性格で、家にいるときはたいてい自炊している。
「あしたから、ふつうのご飯にしてみましょうか」
イルカは長いあいだ、栄養剤と医療用の流動食などで命を繋いできた。その影響で、いまだに消化器官は著しく弱っている。カカシはそんなイルカのために、綿密な食餌療法を施していた。アスマなどは、まるで専属の医者が付いているようだと言って、笑った。
こちらの体調を見ながら日々の献立をたてる様子は、たしかに医者も顔負けである。もっとも、あることだけは、体調よりも感情が優先するようだったが。
「手加減、しようと思ったんだけど……」
熱い体をはなしたあと、カカシは言った。
「あんたに触れたら、我慢できなくなった」
褥の中でだけ聞く、この声音。
「イルカ……」
自分を見下ろすふた色の瞳。イルカはその頬に手をやって、ふたたび引き寄せた。
「……また、我慢できなくなるよ」
首筋に顔を埋めて、囁く。
それは、おれも同じ。だから、いい。触れたい気持ちは抑えられないから。
ゆうべもそうやって時を過ごし、朝を迎えた。眠りに落ちる直前まで、間違いなくあの男は自分の側にいたのに。
厨の中を窺う。そこにはだれもいなかった。
コンロに鍋がかかっていたが、まだ火は点いていない。米は洗ってざるに上げてあり、菜ものは調理台の上に置いてある。やはり朝食の下ごしらえをしていたらしい。
それにしても、どこに行ったのだろう。イルカは草履をつっかけて、厨から庭に回った。
家の面積に比例して、庭も相当、広かった。
生け垣に囲まれた前栽には、季節ごとに花を咲かせる木がたくさん植わっていて、いまは躑躅(つつじ)が最盛期だ。
紅色の小振りな花をつけた木の前に、カカシはいた。
「おはようございます、イルカ先生」
こちらが声をかける前に、銀髪の上忍はくるりと振り向いて、にっこりと笑った。
「……ずいぶん、早起きなんですね」
イルカはカカシの手元を見つつ、言った。
「それは?」
「ミヤマキリシマです」
パチリ、と鋏の音。
「座敷に、活けようと思って」
そういえば、床の間にも玄関にも花がなかった。カカシはきのうまで、任務で里を空けていたから。
「花は、早朝に採るのがいいんですよ」
朝日の中、鮮やかな色の花が風に揺れている。
「『君がため春の野にいでて』……なーんてね」
古歌の冒頭を引用する。
「あれは、花ではなくて『若菜』ですよ」
ぴしゃりと、イルカは言った。
「山菜と鑑賞用の花と、一緒にしないでください」
「さすがですねえ」
くすくすと、カカシは笑った。
「生き字引にはかないませんよ」
切り取ったばかりの紅色の躑躅を持って、すたすたと家に戻る。イルカもそれに続いた。
中に入ると、カカシは座敷の床の間に焦色の寸胴(円柱形の壺)を置いて、それに躑躅をぽんぽんと投げるようにして活けた。以前に聞いたところによると、これも正式な「投入れ」という活け方らしい。
「さあて、それじゃ、ごはんにしましょうか」
服を着替えて、厨に立つ。コンロに火が点けられ、調理が始まった。
いつもながら手際がよい。料理などするような男だとは思わなかったのだが。
写輪眼のカカシ。千の術をコピーしたという里一番の手練れ。内外にその名を轟かせた忍が、鼻唄まじりに小松菜の煮浸しを作っている。
よかった。
ふいにイルカは思った。こんな、なんの変哲もない朝が迎えられて。
本当に、よかった。
両親の笑顔が脳裡に浮かぶ。
『おはよう、イルカ』
『イルカは寝ぼすけだな』
やさしい声。つい最近まで、あの最後の言葉しか思い出せなかったのに。
いまでは、苦しみも悲しみも怒りも、この身の内に溶けてしまったような気さえする。
開け放たれた窓から、さわやかな風が吹き込んできた。
味噌汁の匂いが満ちる厨の中。イルカは膳の上にふたり分の食器を並べて、カカシの背中を見守った。
(了)
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