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長月の雨 byつう
雨が降ると、古傷が痛む。
実際の痛みとともに、心の痛みをともなって。
きっとこの人は、すでに時効になった痛みまで感じてしまうのだろう。心を閉ざしていた時間が長かったから、本当ならそのあいだに消化していたはずのものまで、いま、感じているのかもしれない。
カカシの腕の中で、イルカは眠っていた。安心しきった顔で。
前回の仕事は、厄介だった。失敗すれば自分の命どころか、木の葉の国全体を動かすほどの大事になる危険があった。
雲の国と森の国。目下、三代目火影がもっとも警戒している国である。
森の国は雲の国の属国のひとつだが、じつのところ雲の国に匹敵するほどの力を有していた。国力ではなく、忍やつわもののレベルにおいて。
森の国を治めているのは、表向きは雲の国の公家の分流だ。が、実際にまつりごとを動かしているのは、森羅(しんら)と呼ばれる忍の一族だった。
森羅は、森の国が国として成る以前から山岳地帯に生活の拠点を置いていた。代々伝わる忍の術は門外不出とされ、「影」を冠する五大国でさえ、その秘術を手にすることはできなかった。
本当に、よく生きて戻れたものだと思う。運がよかったとしか言いようがない。
何事も偶然はないという考えのカカシでさえ、あのとき滝壺に落ちたことを幸運だと思うほかなかった。もし落ちていなかったら、生きて里の土を踏むことは叶わなかっただろう。森羅の忍は、確実にこちらの動きを見切っていたから。
次にあの忍に会ったら。
イルカの髪をもてあそびながら、カカシは考えた。
次に会ったら、おそらくどちらかが死ぬことになる。そういう場面でしか、自分たちがまみえることはあるまい。
まだ若い男だった。青墨色の髪と翡翠の瞳の。あれはたぶん、森羅の直系だ。闇の中でさえ昼間のように見えるという特殊な眼を持っていた。夜行性の肉食獣のように、音もなく素早く、やつは動いた。
森の国の内紛がどうなるか、まだ定かではないが、いずれまた火影の勅命を受けることになるだろう。そして、やつと対峙する。
生存の確率は五分。いや、いまのままでは、こちらの方が分が悪い。
森羅の技は独特で、なかなか先が読めないのだ。対して、森羅の忍は五大国の忍の技を網羅している。
しばらく、「先生」は休みだな。腹を据えてかからねば。
カカシはそっと、イルカの頭の下から腕を抜いた。
「ん……」
眉を寄せて、横を向く。一瞬、起こしてしまったかと思ったが、やがてまた静かな寝息が聞こえてきた。
森の国からカカシが帰還して、一週間。イルカはようやく元の状態に戻りつつあった。
「毎回のことだがよ」
昨夜、馴染みの居酒屋でコップ酒を飲みながら、アスマが言った。
「おまえがいないときのイルカは、昔に戻っちまうんだよな」
なにも見ず、なにも聞かず、なにも感じず。ただ時間が過ぎるのを待つだけの人形に。
「まあ、少しでもものを食ってるだけ、ましと言えばましなんだけどよ」
自分が里を離れているあいだ、イルカが不安定な状態になっていることは知っていた。帰ってくるたびに、すがりつくように伸ばされる手。いままでは自分も、なんの躊躇もなくその手を取っていたけれど。
今回ばかりは驚いた。半月ぶりに会ったイルカは、すっかり面変わりしていたから。
もし。
もし自分がいなくなったら。
この人はいったい、どうなってしまうのだろう。
ずっと一緒にはいられない。自分は忍で、この人も忍で、里のために、仲間のために為さねばならぬことは山ほどある。
『オレは、オレのできることをするの』
かつて金髪の師が言った言葉。できることを精一杯やる。できないことも、できるようにして。
『やるべきことをやらないヤツに、やりたいことをやる資格なんかないのよー』
どんなにつらいときも、朗らかに笑いながら最善を尽くしていた。あの人のように生きたい。そう思って、やってきた。だから。
自分は、イルカのためだけには生きられないだろう。どんなに深く愛していても。
それとも、これは愛ではないのか。この想いは……。
願ったものは、ひとつだけ。あんたの命。ただそれだけ。
叶ったと思ったのに。救えたと思ったのに。でも、それは間違いだった。
カカシは上体を起こして、イルカを見下ろした。形のよい唇が、呼吸のたびにわずかに動く。
イルカ。
心の中で、名前を呼んだ。
イルカ。
愛しい人の名を。
イルカ。俺はあんたを救えない。あんたの全部を救うことはできない。
俺にできるのは……。
胸が苦しかった。しめつけられるように。
「愛している」
声に出して、言った。
「愛している。愛している。……愛して……」
赤子のようにイルカは眠る。その額に、カカシはそっと唇を押し当てた。
外は雨。
長月の雨は、夜陰をさらに濃くしていった。
(了)