待宵草
    byつう







 八畳間に敷かれた夜具が、激しく乱れている。
 天井に響く声。息遣い。繋がりを伝える音。それらが混じり合って、ふたりの夜をさらに濃密なものにしていた。
 半月、会わなかった。会えなかった。仕方がないことだとは十分にわかっていたけれど。
 自分たちは忍である。それぞれの責任をまっとうせねばならない。そんなことは重々承知している。それでも。
 会いたかった。触れたかった。この男の体温を間近に感じたかった。
 注がれる激情に、我を忘れる。
 ああ、やっと……。やっと、眠れる。あなたを身の内に得て。





 カカシは七班の指導教官ではあったが、それと同時に三代目火影がもっとも信頼している上忍でもあった。
「しばらく、出かけてきますねー」
 食後の茶を飲んでいたカカシがそう言ったのは、九月のはじめだった。
「今度は、どこですか」
 茶碗を流し台に運びつつ、イルカは訊いた。ナルトたちもこのごろ広域任務が増えた。泊まりがけの仕事もめずらしくない。
「んー。それはちょっと、企業秘密ということで」
 ことり、と、湯飲みを置く。
「……七班の引率じゃないんですか」
「ええ、まあ」
 曖昧な答え。それはつまり、肯定。
 「写輪眼のカカシ」を投入するほど緊急かつ緊迫した地域、もしくは事態といえば、どれだろう。イルカは考えた。
 目立った動きをしているのは岩の国。水面下で不穏な画策をしているのは雲の国。ほかは、よくある国境地帯の小競り合いにすぎぬ。
 雲だな。頭の中にあるデータを分析して、イルカは結論を出した。
 岩との国境には、すでに何人かの上忍が部隊を率いて駐屯している。このうえ、さらに「写輪眼のカカシ」を配する必要はなかろう。
 雲の国は表向きは静かにしているが、実際は属国の兵備を拡張して、木の葉側の砦を奪おうとしているらしい。その筆頭が森の国で、八月末には森の国に潜入していた木の葉の間者が全員消息を断った。すぐに暗部に出動を要請したが、その後なんの進展も見られない。
 たぶん、カカシは森の国へ行くのだろう。そして雲の国の動静を探り、あわよくば砦を落とす。カカシひとりで一部隊以上の力はあるから。
 森の国は大半が山岳地帯で地形も複雑で、潜入するだけでもかなりの困難を要する。が、カカシはこれまでに何度も森の国での任務を成功させていた。火影もそれを念頭に置いて、命を下したに違いない。
「イルカ先生〜。水、出しっぱなしですよ」
 湯飲みを持って、カカシが流し台の前に来た。水を止めて、イルカの顔を覗き込む。
「どうしたの」
 やさしい声。穏やかに、ふた色の瞳が見つめている。
「いえ、べつに……」
「心配しないで、って言っても無理だろうけどさ」
 左手がイルカの肩にかかる。
「信じてよ。俺を」
 顔が近づいて、キス。ゆっくりと、なにかを確認するかのように。
 信じている。この男のことは。しかし、だからこそ考えてしまう。信じ合って、愛し合っていても、人はいつか必ず別れなければならないという現実を。
 イルカはカカシの背を抱きしめた。信じさせてほしい。もっと強く。自分の弱さを忘れられるほどに。
 その夜、カカシは丹念にイルカを愛した。ゆるやかな波と大きな波と、そのあいだを何度か行き来して、イルカは陶酔の中で眠った。
 夜明けとともにカカシが出ていく。
「無事のご帰還をお祈りしています」
 定型の言葉を、心を込めて言う。藍色の隻眼を細めて、カカシは頷いた。
 そして。





 一週間か、あるいは十日。
 イルカはカカシの復命をそう計算していた。カカシが里を発ってすぐに、暗部が森の国から撤収したという噂を聞いたからだ。噂の主は、アスマだった。
「いくら暗部っつっても、『写輪眼のカカシ』と連携できるようなやつがいないんだわ。情けないっちゃあ情けないんだが」
 頭をぼりぼりとかきつつ、アスマはぼやいた。
「三代目も、ちっとばかりやりかたを間違ったよなあ」
「間違った?」
 イルカは顔を上げた。
「んー。まあ、こりゃマル秘なんだけどよ」
 アスマは声を落とした。
 ちなみに、これらの会話は火影の文庫で為されていた。むろん、余人はいない。
「森と雲が、ケンカ別れするかもしれねえんだと」
「それなら……」
「そ。わざわざちょっかい出さなくても、高見の見物をしてりゃよかったんだ。『草』を動かすのが早すぎたよ」
 森の国が雲の国から離れるつもりでいたのなら、雲側の対木の葉の作戦はそう簡単には成るまい。たしかに、いましばらく傍観していれば、間者を無駄に失うことはなかったはずだ。
 こちらが探りを入れたために、かえって森の国の木の葉に対する警戒を強め、雲の国との決別を遅らせてしまったのかもしれない。
「どうせなら、おまえさんを使った方が効果的だったろうに」
 にんまりと、アスマは言った。
「森の国ん中なら、目をつむってても歩けるだろ」
「大袈裟ですね」
 くすりと、イルカは笑った。
 アスマはおそらく、七年前の城攻めのことを引き合いに出しているのだろう。あのとき自分は、木の葉の部隊に進路を指示し、抜道まで教えたから。
 中忍になってはじめての任務だっだ。当初はただ、森の国に住む「草」と呼ばれる間者に接触するだけのはずが、途中で重大な情報を拾い、結果的に城攻めをお膳立てすることになってしまった。
「まあ、三代目はおまえさんを余所に遣る気はないだろうがね」
 国境の砦での一件以来、イルカは現場を離れた。アスマの言うように、もう里の外に出ることはあるまい。とくに雲の国方面には。
「ときに、おまえさん。それ、いつごろ終わる」
 アスマがイルカの手元を指して、訊いた。
「こちらの資料を写すだけですから、あと半時ほどあれば」
「んじゃ、飲みにいこうや。おごってやる」
「お言葉はありがたいんですが……」
「あー、今日はダメだぞ。おまえさん、昼飯食ってねえだろ。これは上忍命令だ。終業後、付き合え」
 さすがに元上官だ。イルカは苦笑した。
「わかりました。お供します」
「よし。事務局で待ってる」
 ポケットから煙草を取り出しつつ、言う。
「アスマ先生、文庫は……」
「禁煙だろ。わかってるよ」
 火をつけずにくわえて、片手を上げる。
「んじゃ、なるべく早く片付けろよ」
 言い置いて、アスマは文庫を出ていった。





 あれから、十日以上が過ぎた。まだカカシは帰ってこない。
 そのかわり、絶望視されていた間者のひとりが生還した。かなりの深手は負っていたものの意識ははっきりしており、その者によって森の国の山岳地帯にある砦の内情が明らかになった。
 ひと言で言ってしまえば、森の国はいま内部分裂を起こしていた。雲の国側に付く勢力と、独立を主張する勢力。それらが対立して、内紛に発展しかねない情勢らしい。
 「写輪眼のカカシ」は負傷した間者を術で逃がし、自分は追手の注意を引きつけるために飛び出していった。その後のことは定かでない。
 それが、一昨日の夜のこと。
 少なくとも、そのときまではカカシは生きていた。砦が落ちたという情報はない。とすれば、カカシは失敗したのだろうか。
 失敗。それは死を意味する。
 火影は明日にでも追い忍部隊を出すつもりらしい。カカシほどの忍が消息を断つ。きわめて容易ならざる事態であることは明らかだった。



 失ってしまうのだろうか。また。
 大切な人を。大切なものを。
 イルカは壁にもたれて、ひざをかかえていた。
 自分はもう、あのころの子供ではない。命はいつか消えゆくものだと納得している。とくにこんな仕事をしていれば、死は常に近くにあるから。
 覚悟していたはずだった。あの男を送り出すときは、いつもその覚悟でいたはずなのに。
 窓の外で鈴虫が鳴いている。まだ頼りない音。それでも途切れることなく、虫の音は続いている。
 ほんの少し、八畳間の窓を開けた。夜風がするりと室内に入り込む。夏のそれとは明らかに違う、ややひんやりとした風がイルカの黒髪を揺らした。空には白い半月。あと数日で、十五夜だ。
 かたん。
 かすかに、音がした。風でなにかが倒れたのか。イルカは窓を閉めて、六畳間に戻った。
「あ……」
 三和土に、水が滴っていた。ぼろぼろの忍服には、ところどころ血がにじんでいる。
「なにか拭くもの、くれませんか」
 口布を下げて、銀髪の男が言った。
「滝壺に落ちちゃって」
 額宛てを外して、ため息をつく。
「もっとうまくやれると思ったんですがねえ。あいつらと遊んでいるうちに、勘が鈍ったかな」
「……カカシ……先生」
 ようやく、声が出た。だれかに背中を押されたかのように前に進む。
「はい」
 カカシはにっこりと笑った。
「ただいま、帰還しました」
「ご無事で……」
 なによりです、と言う前に、カカシがイルカの体を抱きしめた。
 冷たい。でも、あたたかい。カカシの肩。カカシの腕。カカシの頬。そして、唇。
 およそ半月ぶりの口付け。イルカは口腔内にカカシの熱い舌を感じ、これが夢でも幻でもないことを実感した。
 長い接吻のあと。イルカはカカシの左手にあるものに気づいた。明るい黄色の、愛らしい花。
「……それは?」
「え? ああ、これですか」
 カカシは手を顔の側まで持ってきて、
「待宵草ですよ」
「マツヨイグサ?」
「正確には、オオマツヨイグサ。だれかが気紛れに手折って、捨てていったんでしょうねえ。川縁の道に落ちてたんで、拾ってきたんですよ。あ、そうだ。花瓶になりそうなもの、ありますか。水差しとか」
 たしか、水屋にあったはずだ。いつぞやカカシが、自分の家にあったものを持ってきてくれた。
 イルカが水差しを出すと、カカシはそれに水を入れて花を差した。
「あしたには、しぼんでしまいますけどね。せっかく咲いてるんですから、ひと晩だけでもこうしておきましょう」
 人を殺めたあとでさえ、花の命を惜しむ。この男の心は計り知れぬほど深い。
「ところで、風呂、沸いてます?」
「いいえ、まだ……。すぐに沸かします」
 滝壺に落ちたと言っていたっけ。イルカはあわてて、風呂場に向かった。とりあえず大判のタオルをカカシに渡す。
「服を脱いで、体を拭いておいてください」
「どうも。あ、俺がやりますよ」
「え?」
「水遁と火遁を合わせれば、すぐですから」
 疲れているだろうに、余計なことでチャクラを使うのはもったいない。イルカがそう言うと、
「いいんですよ。ほんとに、すぐですから」
 言葉通り、一分とたたぬうちに風呂が沸いた。
「イルカ先生も入りませんか」
「は?」
「だって、さっき、あんたも服を濡らしちゃったでしょ」
 戸口で口付けを交わしたとき。
「それは、そうですが……」
 何度も夜をともにしているが、あらためて言われると、なんとなく気恥ずかしい。
「じつは、ちょっと怪我をしましてね。手が背中まで回らないんです」
 そういえば、服に血がついていた。あれは返り血ではなかったのか。
「それなら、先に手当てを……」
「傷口はもうふさがってます。ほら」
 二の腕と脇腹。イルカは確認した。カカシに傷を負わせるとは、よほどの手練れに違いない。
「だから……」
 カカシはイルカの手をとった。
「一緒に、入ってよ」
 囁くような声音。思わず体が震えた。
「……わかりました」
 小さな声でそう答え、イルカは脱衣所の戸を閉めた。





 八畳間に敷かれた夜具が、激しく乱れている。
 天井に響く声。息遣い。繋がりを伝える音。それらが混じり合って、ふたりの夜をさらに濃密なものにしていた。
 浴室を出たあと、夜着を着ることもせずに床に入った。
 はじめのうちは傷に障らぬようにと気をつけていたが、そんな配慮も、もうできなかった。ただ、この男を感じたい。生きているのだと。ここにいるのだと。それだけを確かめたくて。
 熱い。熱い。全身が燃えるように。
 カカシの激情が注がれる。焦がれていた瞬間が、やっと訪れた。これでいい。これで自分は満たされる。あなたを身の内に得て。




 夜半の月に薄い雲がかかって流れていく。雲のひとひらひとひらが、月影を飾っていくように。
 おぼろげに差し込むその月明りの中、待宵草の淡黄色のおもてが、微笑むようにわずかに揺れた。



(了)




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