頻闇
〜しきやみ〜  byつう








 煉が龍尾の砦に戻ってきたのは、配下の中忍たちが帰還してから三日後のことだった。
「遅かったじゃねえか」
 火影からの報酬を心待ちにしていたらしい幹が、表門まで出迎えてくれた。
「三代目のじいさんとこに寄ってくるっていっても、二日とかからねえと踏んでたのに」
「もしかして、また賭けてたのか?」
「まあなー。ちっ、今日は理寧のひとり勝ちかよ」
「念のために言っておくが、もう前倒しはしないぞ」
 幹は賭け事が三度の飯より好きで、いままでに何度か俸給を前貸ししたことがあった。
「わかってるよ。けど、今度の仕事のギャラはもらえるんだろ」
「……おまえはなにもしていないだろうが」
「ちゃーんと砦を守ってたじゃねえか。ちっとぐらい、分け前があってもいいと思うんだがなー」
 なんともちゃっかりしている。煉は苦笑した。
「あとでな」
「おう」
 機嫌よく答えたあとで、幹は声を落とした。
「今朝方、理寧が木の葉に密使を出したぜ」
「理寧が? なにゆえに」
「さあな。三代目に付け届けをするって言ってたが……あいつのことだからねえ」
 実際のところはわからない。能面のような顔の裏で、いったいなにを考えているものやら。
「わかった。で、やつは」
「半刻ばかり前までは書庫にいたぜ。雲の国の資料を調べているようだったが」
 雲の国。留守中、なにか気になることでもあったのだろうか。
 煉は足早に書庫へ向かった。





 昼間でも薄暗い書庫の中。いまはもう夕暮れ時だというのに、灯りひとつともさず、理寧は奥の椅子にすわっていた。
 こちらが声をかける前に、顔を上げる。きつい視線が投げられた。
「ずいぶん、ゆっくりしていたのだな」
 いつもながら、抑揚のない声だった。感情の動きが読めない。
「三代目は壮健だったか」
「ああ。まだまだ、後進に道を譲る気はなさそうだったよ」
 眼光鋭い火影の様子を思い出しながら、煉は答えた。
「そうか。それは結構」
 理寧は立ち上がった。いままで見ていたらしい資料を書棚に戻す。
「だが……」
「え?」
「この際だから、言っておく。ゆえなく帰還を遅らせるのはやめろ」
 怒っているのだろうか。この男は。たしかに、自分は木の葉の里に一泊した。が、蒼糸から十日の猶予をもらっていたし、復命は配下の中忍が果たしている。一日、砦に戻るのが遅れたとしても、どうということはないはずなのに。
 そう思ったのが伝わったのか、理寧は口の端をわずかに持ち上げた。
「ここをどこだと思っている」
 冷ややかな口調。
「森羅の砦の中でも、対外的には最も重要な場所だぞ。いつなんどき、不測の事態が起こるやもしれぬ。それを、長たる者が仕事帰りに物見遊山とは呆れてものも言えぬわ」
「物見遊山とは、なんだ」
「違うのか」
「三代目が客間を用意してくださったゆえ、断るのも失礼かと思っただけだ」
「ほう」
 理寧は眉を上げた。
「されば、三代目と酒を酌み交わしていたと?」
「……いや、それは……」
 カカシの家から奥殿に戻ったときには、すでに火影は寝所に入っていた。翌朝、朝餉の席では一緒だったが。
 事の次第を説明すると、理寧は一瞬、視線をそらした。
「なるほどな」
 すぐにまた、黒い隻眼を向ける。
「はたけ殿と親交を深めてきたというわけか」
「なかなか興味深い者たちもいたぞ。例の、九尾の子供と『うちは』の末裔。二人とも、はたけ殿の下で働いている」
「それはそれは。下忍になったとは聞いていたが……両名ともはたけ殿のもとにいるとなると、今後ともかの御仁と誼みを通じていて損はなかろうな」
 九尾の力と「うちは」の血。それらが完全なものとなり、カカシとともに戦うことになれば、何万の兵力に相当するだろう。森羅としても、脅威である。
「そのこと、蒼糸さまには?」
「まだだが……」
 そういえば、うっかりしていた。里の結界を出てすぐに、遠話を使ってでも報告しておけばよかったものを。
「……いまごろ気づいたのか」
 理寧は小さく舌打ちした。
「些細なことでも、大きな結果を招く場合もある。仮にも砦を与る身なれば、それぐらいのことは承知しておけ」
 すっと真横を通りすぎ、戸口に向かう。煉は唇を噛んだ。書庫の扉が、音もなく閉まった。




 楽しかった。
 それは事実だ。カカシの家で、子供たちとともに肉や魚を食べて、味噌汁を飲んで。カカシの大切にしているあの人も、ここにいたときとは別人のように元気で、これが彼らの日常であるのだと実感した。
 楽しかった。そして、ほんの少し寂しくて。翌朝、火影と朝餉を摂ったあと、すぐに里を出てきた。
 早く帰ろう。自分の日常へ。そう思って、木々を渡って沢を上って、この砦まで戻ってきた。里で見聞きしたことを報告するのも忘れて。
 蒼糸は、いわば敵対している雲の国よりも木の葉の国を怖れているようだった。いや、「怖れ」ではなく「畏れ」。それゆえ木の葉に関する情報は、どんなに細かいことでも耳に入れるよう、常々言われていた。
 夕餉の席で、煉は主だった者たちに自分が不在のあいだの砦の守護に関して報償金を与えた。
 幹はこのうえもなく機嫌のいい顔でそれを受け取り、ほかの者もそれに倣った。が、理寧は「いわれがない」と辞退し、砦の経費に当てるよう上申した。
「えーっ。もらっときゃいいじゃねえか。そりゃまあ、今日はおまえの総取りみたいなもんだから、懐はあったかいだろうけどよー」
 幹が個人的な意見を述べたが、理寧は意志を曲げなかった。煉はそれを承知し、事務方に一任した。





 その夜。
 煉はなかなか寝つけなかった。風が窓を揺らす音にさえ、神経が過敏に反応する。
 来るだろうか。あの男は。牀の上で、煉はぼんやりと考えた。
 夕餉のあいだも、報奨金を辞退するときも、理寧は視線を上げなかった。それこそ人形のように表情ひとつ変えず、最低限の返答しかしない。もともと感情が顔に出ない人物ではあるが、今日はいつにもまして不可解だった。
 書庫で話したときは、しっかり視線を合わせていたから、そのわずかな目の表情を読み取ることができたのに。
 出立の前夜、理寧は朝までここにいた。
 来てほしかった。本当は。今夜は、ひとりでいたくなかった。
 何度か浅い眠りが訪れたが、結局、熟睡することはできなかった。





 翌朝。
 朝餉の席に理寧の姿はなかった。なんでも、龍央の砦に行ったらしい。
「おまえの指図じゃねえのかよ」
 幹が不思議そうな顔をした。
「蒼糸さまに言上することがあるからって、日が昇る前に出てったぜ」
 幹は、昨夜は外回りの担当だった。
「夕方には戻るって言ってたけどなあ。ったく、きのうといい今日といい、勝手ばっかりしやがって」
 許可なく砦を出るのは、脱走と見做される。そんなことは理寧とて十分承知しているだろうに。
「念のため、龍央に使者を」
「へ?」
「理寧が蒼糸さまに拝謁しているならよし。さもなければ、やつを落ち忍として追わねばならぬ」
「まさか、そんなことはねえって。ま、使者は出してみるがな」
 人騒がせなやつだ、とぶつぶつ文句を言いながら、幹は配下の中忍に龍央へ赴くよう命じた。



 夕刻になっても、理寧は帰ってこなかった。
 龍央から戻ってきた使者によると、たしかに理寧は朝議が終わった直後に蒼糸のもとを訪れ、四半時ばかり人払いをして話し込んでいたという。
「話の内容は」
「わかりませぬ。蒼糸さまも、なにも」
 使者に話すことではない、か。煉はため息をついた。
「それで、やつは昼前に御前を辞したのだな」
「はい」
 それなら、もうとっくに帰還しているはずだ。
 煉は使者を下がらせた。窓辺に立ち、夕暮れ時の灰朱の空を見つめる。
 なんのために、理寧はわざわざ龍央に出向いたのか。そして、蒼糸になにを上申したのか。
「……この砦の長は、私だぞ」
 だれに言うともなく、煉は呟いた。



 夜は、こんなに長いものだっただろうか。
 眠れぬ夜を過ごしたことは何度もある。そう。実の父をこの手にかけたあと。
 眠れなかった。眠りたいとも思わなかった。玄のために命を落とした者たちを弔い、残された者たちに精一杯のことをしなければ。ただ、それだけを思っていた。
 自分など、どうなってもよかった。ただ、後始末だけはちゃんとしたかった。どんなことをしても、償えるとは思わない。それでもこの命のあるうちは、なんでもしようと思った。そして、なにもすることがなくなったら、皆にこの身を預けるつもりでいた。
 一睡もせずに、何日過ごしただろう。それでも夜が長いなどと思わなかった。やるべきことが山積みで、考えることが多すぎて。
 でも、いま。
 考えているのはただひとつ。その、たったひとつのことのために、自分はこの長い夜の中にいる。
 もし、明日になっても理寧が戻らなければ、事を公にして追い忍部隊を編成しなければならない。独断で砦を抜けたのだ。百歩譲って、急な用事で蒼糸さまの判断を仰ぐ必要があったのだとしても、昼に龍央を出て、夕刻までに戻らぬというのは、どう考えてもおかしい。
「理寧……」
 格子も幕も、ぴったりと閉ざした牀の上で、煉はその名を口にした。
『ここに』
 地を這うような、声。
「え……」
 煉は顔を上げた。空耳か。いや、たしかに、いま……。
 背後に人影。とっさに横に飛び退いたが、長い腕が素早く首を締め上げた。苦しい。息ができない。印を組もうとしたところ、もう一方の手が伸びてきてそれを封じた。
「終わりだな」
 今度は、はっきりとした声が聞こえた。しかも耳元で。
 煉は牀に投げ捨てられた。圧迫から解放され、激しく咳き込む。目の奥が熱かった。なんとか態勢を整えようとしたところを、強い力で項を押さえ込まれる。
「わしが刺客なら、おまえはとっくに死んでいる」
 背中にのしかかってきた男が言った。
 利き腕をひねり上げる。ぎり、と鈍い音がした。あと少しで折れる。煉は喘いだ。
「な……ぜ……」
 自分を組み敷いている男がだれなのか、もう煉にはわかっていた。声。息遣い。匂い。そして指の感触。
 理寧だ。理寧がなぜ、こんな真似を……。
「このような甘い結界では、殺してくれと言っているようなものだぞ。ましてや、わしが潜んでいることすら気づかぬとは」
「理寧……」
 なんとか顔を上げようとした。が、牀に頬を押しつけられた状態では、それもままならない。
「わしぐらいの忍は、いくらでもいる。心しておくのだな」
 腕を掴んでいた手が離れた。乱れた夜着の裾からその手が入り込み、下衣が乱暴に引き下ろされた。





 星明かりさえ入らぬ頻闇の中。その行為は続いていた。
 開かれた下肢は、すでに感覚すらない。動きに合わせて体が揺れる。声が漏れる。快楽とはほど遠い状態になっていながらも、煉はそれを最後まで感じていたいと思った。
 自分はたしかに、この男を待っていた。この男の姿が見えぬことに、心が見えぬことに苛立っていた。たった一日のことなのに。
 もしかしたら、この男もそうだったのかもしれない。たった一日でさえ……。
「は……っ……あ……んっ……っ!」
 指先が、唇が、つま先が、そして頭の中が。痺れて、もうなにもわからない。ただ、繋がった場所から絶え間なく生まれてくる熱い流れが、自分が求めていたものと、この男の求めていたものを教えてくれていた。





 理寧は、朝まで煉の房にいた。
 わずかな隙間から漏れる薄い光。煉はゆっくりと目を開けた。見慣れた顔を認め、うっすらと微笑む。
「やっと……」
 声が、うまく出ない。口がからからに乾いていた。理寧は煉のあごを持ち上げ、深く口付けた。少しずつ、中が潤っていく。
 唇が離れ、煉は小さくため息をついた。
「やっと、見えた」
「……なにが」
「おまえの、眼」
 そろそろと手を上げる。手首は青黒く変色していた。
「見たかった。ずっと」
 赤茶色の髪を撫でる。白濁した右眼の横を指がすべる。理寧はそっと、その手に自分の手を重ねた。
「理寧、すまないが……」
 ふたたび睡魔が襲ってきた。もっと見ていたいのに。
「朝餉はここに運ぶ」
 理寧は煉の手を夜具の中へと戻した。
『だから、心置きなく眠れ』
 音にならぬ声が聞こえ、煉は目蓋を閉じた。



(了)


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