鳥珠〜ぬばたま〜 byつう それは、まったくの誤算だった。 まだまだ自分は甘い。森羅の中にも、敵と通じる者がいるということはわかっていたはずなのに。 以前にも、時限印に似た印を封じられて操られた者がいた。その類ならば、容易に察知できると思っていたのが間違いだった。 高度な印で操作された者であれば、見逃すことはなかった。本当に、見事に足元をすくわれた。 敵は、もっとも古典的な手法を使った。 その男は煉の知己だった。かつて煉の父に命を救われ、ともに暮らしていたことがある。名を尊といい、おとなしい、どちらかといえば目立たない男だった。 忍としてはあまり才能がなかったが、薬の知識を覚えるのは早かった。玄は尊を薬師として独り立ちできるように教育し、長じたのちは伴侶の世話もした。 『砦にいては、寿命をまっとうすることはかなうまい。妻子を残して逝く覚悟がないなら、里に下りた方がよくはないか』 玄は、そう諭した。尊はしばらく悩んでいたようだったが、やがて妻と生まれたばかりの子を連れて砦を離れた。 とはいえ、その後も玄とは連絡をとっていて、薬の調合や流行り病の際の治療法について意見を交換していたようだった。玄の死後は煉が文を遣り取りしていて、年に一度は砦に足を運んでいた。 今回も、常と変わらぬ訪問だった。数日前にこちらの都合を伺う文が届き、煉がそれに返事を書いた。そして。 指定された日に、尊はやってきた。 「今年は紅葉が早いなあ」 途中で手折ってきたのか、楓を一枝、差し出す。煉はそれを受け取り、 「よく来てくれた。奥方と娘御は息災か」 「元気にやってるよ」 穏やかな口調。煉は尊を、彼が以前暮らしていた房に案内した。それはいつものことで、たいてい尊はそこで四、五日過ごした。 砦を離れてのち、尊はいわゆる「草」のような役割をしていた。薬師として里にあって、周辺の情報を集める。さらには、必要とあらば森羅に益となる情報を流す。尊はおっとりとした性格で、見た目も人のよさがにじみ出ていた。「草」としては最適であろう。 今年も例年のごとく日々を過ごすのだろうと思っていたら、 「内々に話したいことがある」 房に入るなり、尊は言った。別人のような厳しい顔で。 「水郷寺のことで」 雨の国の水郷寺。国主に匹敵する権力を持つそれが、なにか事を起こしたのだろうか。雨の国に送り込んでいる間者からは、そんな報告は受けていないが。 「聞こう」 煉も表情を引き締めた。尊はちらりとこちらを見た。できれば、席を外してほしいのだろう。わかってはいたが、無視した。尊は小さく息をついた。視線を煉に戻す。 「霧忍が水郷寺にいる」 端的な言葉。煉は眉をひそめた。 「まさか……」 雨の国はかつて、霧の国の支配下にあった。いまは波の国や海の国と同盟して霧の国に対抗している。現在の国主の代になってからは、ほぼ自治を確保していたのだが。 「雲の国の次は霧の国か。生臭坊主のすることはわからないな」 煉が吐き捨てるように言った。尊は頷いた。 「水郷寺は、国主に一歩先んじられたことが気に入らないんだよ。霧の国から特殊な菌を手に入れ、それを培養しているようだ」 「菌?」 「流行り病を引き起こすようなものらしい。まだはっきりとはわからないが」 未知の病原菌をばらまき、市井に混乱を広める。そしてたぶん、自分たちはその菌に対する耐性をつけておくつもりだ。 「理寧」 煉が視線を向けた。 「確認を」 「御意」 たしかに、事実であれば一刻の猶予もならぬ。水郷寺そのものを潰すわけにはいかないが、霧忍の抹殺と菌の廃棄は必須であろう。 理寧は、毒物耐性を有する仲間を招集した。 相手は水郷寺だ。どう転ぶがわからない。 その危惧があったから、理寧は国境まで仲間を率いてきていた。右眼の視力を失って以来、ほとんど砦を離れることはなかったのだが。 水郷寺を監視していた間者と、新たに派遣した仲間の報告を総合すると、たしかに水郷寺に霧忍が潜入したことはあったらしい。が、どうやら利害の一致を見なかったらしく、門主はその霧忍を早々に追い返したという。雲の国とは、あいかわらず繋ぎをとってるようだが。 なにしろ、水郷寺の門主は「風見鶏」と異名をとるような男である。少しでも自分に有利なら、どちらにでもなびくだろうが、当面、霧と手を結ぶ心配はなさそうだ。 ということは。 それは、まったくの誤算だった。 あまりにも、とっぴもない話。しかし、だからこそ十分ありうる話。 水郷寺をエサにしたのは、さすがとしか言いようがない。尊。おまえは、あのまま砦に留まっていた方がよかったのかもしれない。 遠駆けの術を使い、理寧は龍尾の砦に帰還した。 尊は偽りの報告をしていた。おそらく、注意を外に向けるために。 外回りの者たちに砦の周囲を固めるように命じる。幹は龍央へ行っている。これも尊の進言によって。 なんということだ。このわしが、こうも易々と欺かれるとは。 理寧は尊の房に飛び込んだ。いない。ならば……。 踵を返す。渡殿を走る。煉の私室に向かって。 まさかとは思う。煉はこの砦の長。森羅の直系だ。あんな、体術さえまともに習得していない男に倒されることはあるまいが、それとて、いまとなっては擬態であったかもしれぬ。 尊が、刺客ならば。 「煉!」 扉を破るようにして開けた。窓際に、細身の人影。 煉だ。無事だったか。一瞬の安堵ののち。 「……煉」 理寧は、低く呻いた。 煉は、たしかに無事だった。が、つねには高い位置できっちりと結わえられている黒髪が、見るも無惨に切られていた。ざんばらの髪が肩のあたりで揺れている。顔色は、真っ青だった。 「なにがあった」 怒りとも悔しさとも言えぬ感情をかろうじて押し殺し、理寧は訊いた。 「尊は?」 「帰った」 「帰った? 帰したのか。刺客を」 「そうだ」 「なにゆえだ。それに、その髪は……」 「尊にやった」 さらりと、煉は言った。理寧の思考が、しばし固まった。 やった、だと? 森羅の直系たる者が、おのが一部を敵に与えたというのか。 「……説明しろ」 納得できるはずがない。理寧は煉を見据えた。煉はぽつりぽつりと語った。尊の妻子が雲の国に拉致されたことを。そして、その身柄と引き換えに刺客となったことを。 尊は煉に刃を向けた。理寧が予想した通り、尊は以前とはくらべものにならぬほど腕を上げていた。煉がかろうじて攻撃を封じたとき。はじめて尊は妻子のことを打ち明けた。 「いずれにせよ、助からぬ命だ。最初から覚悟はできている」 たったひとつの心残りは、家族のこと。それを聞いて、煉は束ねていた髪をざっくりと切った。 「これを」 「煉……」 「首を持ち帰ることはできなかったと言えばいい。少しは時間が稼げるだろう。そのあいだに、奥方と娘御を」 そう言って、煉は尊を逃がした。 すべてを聞き終えたあと。 自責の念はどこかに消えてしまった。ただ、どす黒い感情のみが胸の内に渦巻いて。 結界を張る。幾重にも。煉にさえも解けぬほどに。 表情が変わった。わかっているのだろう。煉にも。わしがどんな気持ちでいるのか。 煉。おまえのしたことは裏切りだ。森羅に対しても。わしに対しても。 「なぜ、殺さなかった」 暗殺に失敗して、殺された。それならば、少なくとも妻子の命は助かったはずだ。雲の国とて、そこまで無駄な殺生はせぬ。しかし。 情けをかけられて見逃されたとなれば、雲の国は許すまい。 「おまえの髪を与えたとて、尊が助かる確率など無に等しい。むろん、妻子もな」 近づいた。手をのばす。細い首をぐっと掴む。秀麗な顔がわずかに歪んだ。 苦しいか。苦しいだろうな。だが、わしはもっと苦しいのだ。 おまえの情けは、刃になる。やさしい言葉が、視線が、行為が。わしをさらに切り刻んでいく。 許さぬ。だれかにおまえを与えるなどと。たとえそれが髪の毛一本でも。爪のかけらであっても。 衣服を引き裂いた。加減などきかぬ。もう、止められなかった。 何度も貫いた。快感などない。ただ、刻みたかった。わしという存在を、おまえの中に。 まだわからぬか。このわしが。おまえの心を揺るがすもの。それがなにものであっても、完膚なきまでに潰してみせよう。おまえを乱すのは、わしだけでいい。ほかにあってはならぬ。 過去も、現在も、未来も。 わしだけのために、苦しめ。 煉はなにも言わなかった。許しを乞うこともなかったし、助けを呼ぶこともなかった。ただ、耐えて。耐えて。 煉が意識を失ったあとも、理寧はその身をはなすことができなかった。深い場所で煉を感じる。その瞬間が、少しでも長く続くことを願って。 理寧がおのれを取り戻したのは、もう空が白みはじめたころだった。死んだように眠る煉の側で、理寧は朝を待った。 失われた烏珠の髪のゆくえを思いつつ。 (了) |