浄罪 byつう ACT2 森羅の首長、蒼糸は、若葉の色にも似た緑色の瞳を細めて煉を見遣った。 「少しは、落ち着いたか」 やや高めの、張りのある声。煉はまっすぐに首座を見上げた。 「は。おかげをもちまして」 「堅苦しいあいさつは抜きにしよう。御許(おもと)と私は従兄弟同士なのだから」 「されど……」 「玄は、残念なことをした」 哀しげに眉を寄せる。 「時限印を封じる術を、なんとしても会得せねばならん。間者をこれまでの倍にしたが、いまのところ有力な情報はない」 「時限印の術者は、よほどの手練れでありましょう。そう簡単に尻尾を掴ませるとは思いません」 「まさに、雲を掴むようなものか」 蒼糸は懐から巻物を取り出した。 「これを」 「は?」 「玄のものだ」 「父の……」 まじまじと、巻物を見る。 「去年の薬狩りのときであったか、私にこれを預かっていてくれと言ってな」 薬狩りとは、五月の節句のころに薬草を摘む行事のことである。 「自分に万一のことがあった場合に御許に渡してほしい、と」 煉は巻物を受け取り、その封を解こうとした。 「待て」 蒼糸が制する。 「ここで開封する必要はない」 「しかし……」 玄が蒼糸に託したのだ。目の前で中をあらためるのが礼儀だろう。 「父から子への形見だ。私はそれほど無粋ではない」 蒼糸は微笑んだ。 「軍議は半刻のちだ。それまで下がっていてよい」 心遣いが胸にしみた。龍尾の砦の者たちだけでなく、蒼糸までもがこのような……。 煉は深々と頭を下げ、御前を辞した。 そして。 軍議は夜遅くまで続き、一同がそれぞれの房に引き上げたのは、日付の変わったころだった。 疲れたな。 煉は着替えもせずに牀に倒れ込んだ。 「父上……」 枕元に置いた巻物に手をのばす。 たったひとつの、父の形見。あのとき、父の屍はもちろんのこと、私物のほとんどが処分された。生まれ育った家も閉ざされて、いま、煉は砦の一角に住んでいる。いずれどこかに住まいを見つけるつもりだが、どうせ一年の大半は砦暮らしだし、龍尾を任されたからには、いまのままでも不都合はないように思っていた。 巻物を紐解き、再度、目を走らせる。 それは、複雑な暗号で書かれた上に術で封じられた薬物の処方箋だった。五大国とその周辺諸国のみならず、南の離島や北方の氷の大地に至るまで、あらゆる場所のあらゆる薬物や毒物の資料。おそらく蒼糸でさえも、それらのすべてを知ってはいまい。 これを、私物化してしまってよいのだろうか。やはり蒼糸に献じて、薬師や医師に閲覧してもらった方がいいかもしれない。 父から子への形見だと蒼糸は言った。が、これは、森羅の一族全体への形見でもあるのだから。 巻物を元通りにして、煉は立ち上がった。軍議が終わってから半時とたっていない。だいぶ遅いが、まだ蒼糸は起きているだろう。 そう思って扉に手をかけたとき、外から戸が開けられた。瞬時にうしろへ飛び退き、クナイを投げる。ダン、と鈍い音がして、それは扉に突き刺さった。 「なんの真似だ」 首をかしげるような格好でクナイをよけた理寧が、抑揚のない口調で言った。 「それはこちらの台詞だ」 煉は突然の侵入者をにらみつけた。 「人の部屋に入るのに声もかけずに。それでは殺されても文句は言えないぞ」 「わしの『気』ぐらい、とうに読んでいると思っていたが」 片方だけの黒い目が、こちらを見下ろしている。煉は唇を噛んだ。 たしかに、わかっていた。自分が巻物の紐を解いたころから、この男が扉の向こうにいたことは。 間違いようのない気。昨夜のこともあって、それは煉の中にくっきりと残っている。 「そのうえでこのあいさつとは、わしも低く見られたものだな」 理寧は口の端を持ち上げた。 「それを、どうするつもりだ」 件の巻物を目で指して、問う。無言のまま通り過ぎようとした煉を、理寧の腕がさえぎった。 「蒼糸どのなら、もうお休みになっておられる」 見透かされている。煉はかっとなって、理寧の腕を払った。 「黙れ。これは私のものだ。私のものをどうしようが、きさまには関係ない」 「それで償えると思っているのか」 冷たい声。 「こちらを向け」 無意識のうちにそむけた顔を、ぐいっと掴まれた。至近距離に、無気味なほどに整った面がある。 「そのような甘い考えでは困る」 「甘い?」 「償いなどできぬ。永遠に」 理寧は断言した。 「玄どのは同胞を殺した。おまえがなにをしようと死者は生き返らぬし、わしの目も元には戻らぬ。これが現実だ」 「わかっている!」 悲鳴に近い声で、煉は叫んだ。 「そんなことはわかっている。だから……」 自分など八つ裂きにされてもいいと思っていた。仲間の怨嗟をすべてかぶって。 「なまぬるい」 ぼそりと、理寧は言った。 「だから、罰してほしかったとでも言うつもりか。罰を受けて、それで自分が安心したいだけではないか」 理寧は煉を室内に押し戻した。そのまま牀に突き飛ばす。 「なにをする!」 「わしは昨夜、おまえに触れた。おまえは拒絶しなかった」 たしかにそうだ。そして、それでもかまわないと自分は思った。だが……。 のどを掴まれ、乱暴に帯の結び目が解かれたとき、本能的な恐怖が全身に走った。 「見ろ」 自分を組み敷いた男の声が、耳元で聞こえた。 「その目にしっかりと焼き付けておけ。おまえが一生、背負っていくものを」 白く淀んだ右の眼が、まるで見えているかのようにこちらに向けられている。煉は、目を逸らすことができなかった。 はじめての感覚に、五感のすべてが過剰に反応している。 理寧は容赦しなかった。深い口付けと執拗な愛撫が煉を追いつめていく。 「は……あ…っ……」 声が抑えられない。目を閉じることもできない。いま自分がどういう状態なのか、いやでも思い知らされる。 両脚が広げられ、その場所に理寧が侵入してきた。強烈な圧迫感。 苦しい。息ができない。足先が痙攣を起こしたように、小刻みに震えていた。えぐるような痛みが背中から脳天に突き抜ける。ずり上がろうとする体を、理寧の手ががっしりと押さえ込んだ。 何度も何度も衝撃が走る。目の前がだんだんと銀色になる。 すぐそばにあるはずの理寧の顔が、妙に遠くに感じたとき。煉の視界は暗転した。 遠くで聞く蝉時雨のような、あるいは針葉樹の森に吹く風の音のような。 耳の奥で、なんとも不思議な音がする。夢とうつつのあいだをいくたびか行き来して、煉はようやく意識を取り戻した。 外はまだ薄暗かった。そろそろと頭を巡らせると、長椅子に理寧がすわっていた。 「起きたか」 いままで閉じられていた目が、ぱちりと開いた。 「まだ早い。もうしばらく眠れ」 気のせいだろうか。声が、いくぶん穏やかになったように思う。 「理寧……」 起き上がろうとして、煉は顔を歪めた。全身のいたるところが、先刻までの行為のあれこれを主張している。 「その体では、いますぐ動くのは無理だ。昼までここにいろ」 言いながら、立ち上がる。 「午前中の軍議には、わしが代理で出席する」 淡々と告げて、理寧は房を出ていった。 昼までここにいろ、か。 煉は息をついた。たしかに、これでは軍議どころではない。横になっていてもこんなにダメージがあるのだ。長時間、すわってなどいられまい。 そこまで考えて、煉は急におかしくなった。理寧は「昼まで」と言った。ということは、午後には通常通りの仕事をしろというわけか。 なるほど、たしかに甘くない。 煉は目を閉じた。眠ろう。少しでも、体を休めなければ。 失神と睡眠は、まったくの別ものだ。同じように見えても、失神している最中は体力の回復は望めない。 昼まで。それまでちゃんと眠って、昼餉をとって、午前中の軍議の内容を検討しなければ。体は極限まで消耗していたが、心の霧は徐々に晴れつつあった。 数分後。房の中では静かな寝息が聞こえ始めた。薄い朝日が格子の隙間から細く差し込んでくる。 長い夜が、いま明けた。 (了) |